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 私小説のどうにもいい気で、我慢のならぬ点は、作者(作中の主人公)は絶対、死ぬことがない所にある。如何に生き難さを綴ろうと、悲惨な身辺を愬えようと「私」は間違っても死ぬ気遣いはない。生きている、だから「書く」という操作を為せる。通常の物語では、主人公は実人生に於けると同様、いつ、何ものか――運命ともいうべきもの――の手で死なされるか知れない。生死は測り難い。まあいかなる危機に置かれても死ぬ気づかいのないのは007とチャンバラ小説のヒーローと、「私」くらいなものである。その辺がいい気すぎ、阿房らしくて私小説など読む気になれぬ時期が私にはあった。
 非常の事態に遭遇すれば、人は言葉を失う。どんな天性の作家も言葉が見当らなくて物の書ける道理はない。書くのは、非常事態の衝撃から醒めて後、衝撃を跡づける解説か自己弁明のたぐいである。我が国ではどういうものか、大方の私小説を純文学と称する。借金をどうしたの、飲み屋の女とどうだった、女房子供がこう言った等と臆面もなく書き綴っても、それは作者の実人生だから、つまり絵空事の作り話ではないから何か尊ぶべきものという暗黙の了解が、事前に、読み手と作者の間にあるらしい。ばからしいリアリズムだ。勿論、スパイ小説にあっても主人公はいかなるピンチからも脱出するに相違ない。ヒーローが敵国の諜報団にあっ気なく殺されるのではストーリーは成立しない。この、必ず生きぬけるという前提が、読者を安心させているなら、救われているのはヒーローではなくて作者である。救われたそんな作者の筆になるものだから、読む方も安心していられる。つまり死ぬ気遣いのないのが実は救いになっていて、似た救いは私小説にもあるわけだろう。どれほど「私」が生きるため悪戦苦闘しようと、とにかく彼はくたばることがないのだから。
 でも、実人生では時にわれわれはくたばってしまうのである。意図半ばで。これは悲惨だ。小説は勿論、非常の事態に遭遇した人間の悲惨さを描かねばならぬわけではない。しかし兎も角、私小説で「私」がぬけぬけ救われているというこの前提が、いい気すぎて、私小説を書く作者の厚かましさに我慢のなりかねた時が、私にはあった。太宰治は、徹頭徹尾、私事を書いた作家だと私は見ている。太宰は私小説の「私」は金輪際くたばらぬという暗黙の了解に、我から我慢なりかねて自殺したと。ざまあみろ、太宰は自分自身にそう言って死んだのだと。
 これは無論、私だけの勝手な太宰治観である。私小説のすべてが「私」をぬけぬけ生きのびさせているわけではない。『マルテ・ラウリッズ・ブリッゲの手記』はどんな死を描いた文章より私には怖ろしい。リルケが私小説作家でないのは分っているが、古いことばながら、作家精神といったものを考えた時、凡百の私小説作家の純文学など阿房らしくて読めなかった。そういう時期に、音楽を私は聴き耽った。
 音楽作品に心境小説のたぐいの感銘を得るのは容易なことだ。そいつは時に言語より直截に沢山なことを話しかけてくる。作曲者の地声――言葉が私には聞える。そしてもっとも私小説的なのは弦楽四重奏曲、ヴァイオリン・ソナタだろうと思う。いわゆる文学青年時代にそれらを多く聴いたからだろうが、何にせよ、すぐれた室内楽曲は非常に思索的な文学書を繙くに似たものを私に与えてくれた。人がどう生きたかではなく、自分はどう生きるべきかをそれは語りかけて来た。もっとも、ピアノの音では駄目で、どういうものかこの思索にはヴァイオリンが不可欠な楽器ではあったが。
 歌劇はその点、文字通り劇であって、交響曲も静謐とは申せず、登場人物の多彩で構想の雄大な長編小説を連想させる。受難曲や声楽曲が私に思索的でなかったのは、思索は沈黙のものでありお喋べり(人声)はもともと必要ないからであろう。
 いずれにせよ、こうして弦楽四重奏曲から私は一人称のすぐれた文学作品を読んで来た。耳で読んだ。馬の尻っぽが弦をこする重奏がひびき出すと、私は今でも緊張する。オペラや歌曲は、どうかすれば一杯機嫌で聴くこともあるが弦楽曲はそうは参らない。その代りつまらぬクヮルテットは、聴くに耐えぬが、ちか頃はいい作品を聴くと死を考えてしまう。死ぬことを。私ももう五十を過ぎた、いつポックリ逝くかも知れない。そう想えば居ても立ってもいられぬ気持になり、結局、酔生夢死というのは、こんな私のような居ても立ってもいられぬ男を慰めるため、造られた言葉ではなかったか、そんな風にも懐うこともある。人間は何をして何を遺せるのか? 漠然とそんなことを考えているうちに、音楽家は作品で遺書を書いた場合があるのか? ふとそう思うようになった。
 すぐ想い浮んだのはモーツァルトの『レクイエム』である。でもモーツァルトでは桁が違いすぎ、手に負えない。もう少しぼくらの手近かでと見渡したら直ぐ一人見つかった。ブラームスだった。私はヴィトーとエドゥイン・フィッシャーのヴァイオリン・ソナタ第一番(作品七八)を鳴らしてみた。ブラームスの誠実さはこの曲で充分である。ヴィトーはよく弾いている。だがこれは周知の通り、明るい夏の雨の気分を偲ばせるもので、プライベートなその初演にブラームスがピアノを受持ち、ヨアヒムがヴァイオリンを弾いてクララ・シューマン達に聴かせたといわれるように、幸せな頃であろう。遺書をつづる切なさを期待するのは、いかにそれがブラームスでも無理である。といって、最晩年の作がかならずしも遺書を兼ねているとは限らない。死をおもうのは年齢に関わるまい。
 ブッシュ弦楽四重奏団で――私の記憶では――クラリネット五重奏曲(作品一一五)をいれたレコードがある。このロ短調の五重奏曲は、あらためて私が言うまでもなくクラリネット室内楽曲の傑作であるが、実を言うと昭和二十七年にS氏邸で聴かせてもらうまで、ブラームスにこの名品のあるのを私は知らなかった。どうしてか知らないが、聴いている裡に胸が痛くなりボロボロ涙がこぼれた。恐らく当時の貧乏暮しや、将来の見通しの暗さ、他にもかなしいこともあったからだろう。
 ――以来この曲を、なるべく聴かないようにして来たし、レコードも所持しない。したがってブラームスの遺言を聴き出そうにも、記憶の中で耳を傾ける以外にないが、二十年前泣いて聴いた曲からそんなものがきこえてくる道理がない。私に出来たことは、音楽辞典でブラームスの生涯をかえりみることである。門馬直美氏の簡潔で行届いた解説がある。抜萃してみよう――
 ブラームスの曾祖父は、大工で、その息子は雑貨商と旅館を経営していた。雑貨商の悴がブラームスの父親ヤーコブ。ヤーコブは家族の反対をおしきって音楽の道に入り、コントラバス奏者となったが生活は苦しかった。彼は二十五歳のとき十七年長の娘と強引に結婚する。そして生まれたのがヨハネス・ブラームスである。
 ブラームスは父から音楽の手ほどきを受けたのち、本格的にピアノを学び、十三歳のときにはもう酒場でピアノを弾いて、家計を扶けた。十五歳のとき最初のピアノ独奏会をひらいた。作曲は十歳ごろから行なっていたが、その大部分をのちに破棄した。読書では、聖書とドイツ・ロマン派の詩に強い感銘をうけた。
 二十歳のときヨアヒムを知る。このときからヨアヒムとは深い友情で結ばれ、二人で大学の歴史と哲学の講義を聴いたりするが、ヨアヒムにすすめられてシューマンを訪問する。シューマンはブラームスの才能を見抜きクララとともに歓迎して、ブラームスを世に出すための賛辞をT音楽新報Uに執筆した。
 翌年、シューマンのライン川投身自殺未遂があり、ブラームスは二年後のシューマンの死去まで、なにくれとなくシューマン家の面倒を見、クララとも親密な交際をする。やがてそれは次第に愛情へと燃えあがってゆくが、シューマンの死後の夏に、クララの息子二人とブラームスも妹を伴ってスイスへ旅行に出かけてから、愛情は同情的なものへと変容した、と門馬氏は述べている。ブラームスは、クララとの結婚と創作生活の両立に自信がもてなくなったらしい、と。そしてこの時期からブラームスは厳格対位法とか楽器法、変奏技法の勉強をはじめ、自己の方向の探求を志した。
 二十四歳から六歳にかけては大体ハンブルクに生活したが、その間ゲッティンゲンに赴き、大学教授の娘アガーテと恋愛する。彼女との恋に関連して、青年の苦悩をこめたピアノ協奏曲第一番がそして完成され、ライプチッヒで演奏されたが、大きな不評を受けた。以後ブラームスはライプチッヒの聴衆には警戒の気持をもつようになったという。アガーテとの恋もこの頃には清算され、彼はハンブルクに帰った。
 一八六二年(二十九歳)の九月、ウイン定住にブラームスはふみ切る。以来、故郷での音楽上の定職につくことをしなかった。ウインではブラームスは次第に実力を認められ、六五年二月に母親が死ぬと、その死に促進されてTドイツ鎮魂曲Uを書く、これは大成功で作曲家としてのブラームスの名声は一段とあがる。父親は再婚する。ブラームスはこの新しい義母にもいろいろと気をつかい、T鎮魂曲Uの成功で、いくつかの音楽学校から教授の地位の申込みがあるが皆ことわった。
 一八七一年、プロイセンはフランスとの戦争に勝つ。ゲルマニズムの血をもつブラームスは、これを記念してT勝利の歌Uを作った。翌年二月、父親が肝臓癌で亡くなった。ブラームスの悲嘆は大きかった。それから一八九〇年まで、いろいろなことがあるが、特筆すべきは涼しい静かな土地で夏、集中的に作曲する習慣を身につけたことである。ブラームスの主要作品はすべてこの夏の避暑地で作曲されたと言っていい。(クラリネット五重奏曲もその一つである。)そして解放された夏、爆発的に避暑地で仕事をするこの習慣は晩年までつづいた。――ブラームスのよき理解者だったレヴィが、ワグナー派に転向してブラームスと激論し、絶交したことも付け加えておくべきだろう。ワグネリアンからブラームスは毛虫のごとく嫌われるのである。その代りワグナーに妻コジマを寝取られたハンス・フォン・ビューローがブラームスに接近するのもこの時である。
 絶交といえば、親友ヨアヒムとも一時仲違いする。ヨアヒム夫人へのヨアヒムの嫉妬深さが大きな原因で(ワグナーは音楽家たちに杞憂の種をばら撒いたのだ)夫人の潔白を証明するブラームスの手紙も逆効果になり友情に破綻を来たした。でも数年後に第四交響曲を発表したとき、ヨアヒムは賛辞を送ってブラームスを喜ばせ、ヨアヒムを意見をうけ入れながら作曲したダブル・コンチェルトは、クララによって「和解の協奏曲」と名づけられる。
 さて一八九〇年、弦楽五重奏曲第二番ト長調(作品一一一)を苦心して作曲してから、ブラームスは自分の霊感が衰え、創作力の減退したのを感じる。そのため仕事の整理をし、できるだけ大曲の作曲をやめ、平和で落着いた生活を楽しみたいと考えた。そして遺言の準備をはじめた。その遺書は翌年(九一年)の誕生日に親友ジムロック――ブラームスの作品の殆どを出版した――に宛てられることになったが、九二年に姉のエリーゼが亡くなったので、のちに整理して書き直された。しかし遺書を書いた九一年は、クラリネット五重奏曲(作品一一五)の作曲された年である。私がこの曲に死を聴いたように遺言を聴こうとしたのは、泣いた記憶によることで全くの偶然だが、私の聴き方は間違っていなかったらしい。むろん、ブラームスの草したこの遺書は、世話になった人たちに財産を考える通り贈りたいためのもので、あくまで事務的な記述にとどまり、およせ厭世的な暗い影はないそうだが、当然だろう。音楽家の遺書は作品にしかあるまい。さて、ではクラリネット五重奏曲とはどんな曲か。門馬氏は解説する――
「数少ないクラリネットの室内楽曲で、傑作の一つとかぞえられるこの曲が書かれたのは、一八九一年三月にマイニンゲンで、ブラームスがすぐれたクラリネット奏者のミュールフェルトを知ったことによる。(中略)この五重奏曲はブラームスの作品の中で最もオリジナルで、最も悲愴味に富むものの一つであると同時に、崇高な諦観、形式の充実した多様性、ハンガリー的色彩などの晩年の特徴も見せている。(中略)つまり、ピアノ五重奏曲(作品三四)が青年ブラームスのエッセンスを示すなら、このクラリネット五重奏曲は老年ブラームスの創作の頂点であり、最も本質的なものを示すといえよう。
 特にその第二楽章アダージョは、全四楽章のうちで最も強い印象を与え、苦悩と憧憬の交叉した楽章である。クラリネットがその最も甘美な音域で三度下降のモットーによる憧憬の歌を奏し出す。弦は、弱音器をつけて、これにやわらかに加わり、第一ヴァイオリンは、エコーのように静かにクラリネットを追いかける。ついで、伴奏のリズムを少しく変え、クラリネットと第一ヴァイオリンが役を交替する、それから、二つのヴァイオリンの八度ででる柔和な旋律をクラリネットが縫うようにすすみ、チェロはそれに答えて憧憬の歌の転回型を奏し、第一部のおだやかなクライマックスとなる。静かな美しい転調部分を過ぎると、突然それは中絶し、憧れをのこしたように第一部は終る。
 第二部で、色彩は急に陰暗なロ短調となり、甘い苦悩が憧憬をおしのける。ここでは、クラリネットは、巨匠的・幻想的に活躍する。そして、この曲を書いた年の一月のハンガリー旅行の印象にも由来するのか、チゴイナー・ハンガリー風の色彩ももつ。第一楽章の第一主題を変形してだし、アルペッジョで急速に上昇したのちに音階風に下降すると、拍子を四分の四に変え、テンポをピウ・レントに落して、クラリネットは、第一楽章の第三小節あるいは第四楽章の主題を変形したような形の句を巨匠的に奏しだす。最も印象的なところである。弦は第一部の旋律をはっきりと出す。強弱はつぎつぎと変り、いろいろな弦がトレモロで暗い影をそえる。その間に、第一部の動機が何回も弦に現れる。ffで号泣するようになると、急に力尽き、諦めたようにクラリネットはいままでの断片を出し、ロ短調からホ短調、ト短調、変ロ短調などをへて、最後に高らかなヴァイオリンの憧憬の歌の冒頭がでると、第三部に入る。」
 私は、音楽でつづられる作曲家の遺書はどんな具合なものかを、感情に頼らず分ってもらうため無駄な言葉を綴りすぎたようだが、引用が無駄だったとは思わない。ブラームスのことならまだ幾らだって私は引用したい。門馬氏の好い文章を写したい――

     2
 ステージで演奏するソナタや、協奏曲を、暗譜で弾いたフリッツ・クライスラーは、大変な近眼だったので、伴奏者への配慮で一応、譜面を前にしてはいるが譜などまるで見ていなかったと、ミヒャエル・ラウホアイゼンは語っている。ラウホアイゼンは一九一九年から十年余、クライスラーの伴奏をつとめたが、その回想で又こうも言っている。――「ステージで演奏の休止のとき、クライスラーはヴァイオリンの頭部をもって、ぶらさげ、けっして脇の下に抱えたりはしなかった。一度、わけをたずねたら、そんなことをすれば弦をあたため、音が変ってしまうと彼は嗤った。又、あごの下にクッションを当てるようなことも此の巨匠はしなかった。クッションを使用すると、ヴァイオリンの音がこもる、ほら、こんな具合に――と弾き較べてくれたのが……」クライスラー愛好家ばかりか、音キチなら快哉を叫びたい挿話だろう。
 ジャック・ティボーは、どうしてもクライスラーの演奏した数々の協奏曲の中で、一つを選ばねばならないなら、躊躇なくブラームスのを採ると言ったそうである。なるほど、レオ・ブレッヒ指揮のベルリン国立オペラ管弦楽団とのそれは、ベートーヴェンやメンデルスゾーンの協奏曲とともに、SP時代、空前絶後の名演と讃えられ、クライスラーでなくば夜も明けぬ時期が私にはあったが、白状すると、メンデルスゾーンやベートーヴェンほど中学生には面白くなかった。私だけに限らぬようで、この協奏曲が、ヨアヒムとの親交なしに生まれなかったろうことは知られているが、そのヨアヒムが「自分のように指の大きな者でないと弾きにくかろう」と言い、それほど至難な技巧の要求されるわりに花やぎのないことをフォン・ビューローも指摘している。(ブルッフはヴァイオリンに味方する協奏曲を書いたが、ブラームスはヴァイオリンに敵対するそれを書いた――ハンス・フォン・ビューロー)要するに大変シンフォニックで難渋なこの曲が中学生に分るわけはなかった。門馬直美氏の解説で知ったのだが、この曲の完成後数年たって、当時早くも完璧な技巧の持主といわれたフーベルマンが十歳前後でこれを弾いたとき、天才とか神童をあまり好きでなかったブラームスも、次第に演奏に惹きつけられ、終ってから控室に出向いて、演奏途中で喝采が起って気分がそこなわれたと悲観していたこの少年を抱いて、接吻し、褒めたたえて言うのに「そんなに美しく弾くものじゃないよ。」――ブラームスの面目躍如たる挿話だ。且この曲がどんな種類の音楽かもこの挿話は明かしている。
 クライスラーは、申してみればフーベルマンの再来だろう。ウイン音楽院で十四歳未満の子は、入学できない規則なのを特別に入学を許され、ヴァイオリンを修めた、その演奏で金メダルを獲得したのが十歳、ついでパリ音楽院で作曲を学びローマ大賞を受けたのは十二歳という神童である。この神童は、むろん正確にはフーベルマン(Bronislaw Huberman 1882-1947)より五歳年長で、十四歳のときアメリカに演奏旅行して大成功をおさめるが、ウインに帰国すると華やかな天才ヴァイオリン少年の道はえらばずギムナジウム(一般の高等学校)に入り、医学のコースに進む。同時にパリやローマの美術を勉強し、ついで試験をうけて将校となり、兵役に服する。その現役を了えて軍務を解かれるまでの十年間、彼はヴァイオリニストとしては沈黙をまもるのだ。クライスラーが再登場するのはだから、再度アメリカに演奏旅行をこころみた一八九九年からだが、こんなことは、モーツァルトだってやれはしなかったろう。
 更に一九一四年、第一次大戦が始まるとクライスラーは召集され、三ヵ月目に負傷して退役する。その負傷にもめげず三たびヴァイオリンをとりあげ演奏活動を起して、戦後(一九二一年五月)ロンドン・クイーンズ・ホールでのリサイタルで空前の成功をおさめ、黄金時代を築くのは知られた話だが、何にしても「二十すぎればただの人」というのとはわけが違う。そんなクライスラーの、いわば最も円熟したころの演奏がレオ・ブレッヒとのヴァイオリン協奏曲なので、ブラームスが聴いたらやっぱり、
「そんなに美しく弾くものじゃない」
 首をふったろうか?
 ブラームスは、一言でいえば内省的で誠実な人だ。才能をひけらかした所など微塵もない。リストを好まなかったというのはよくわかるし、もともと、ひけらかすような才能のないことも自分で知っていたと思う。ワグネリアンに「毛虫の如く嫌われ」「その交響曲の大荷物は、進歩としてではなく以前のもの(ベートーヴェン)の継続としてしか価値がない。」と蔑まれても仕方のないような面も、確かにブラームスの音楽にはある。そのブラームスの協奏曲を、天才ヨアヒムが弾き、イザイが弾き、クライスラーが弾かねば凡百のソリストでは退屈な曲に堕してしまうのは、どういうことか。天才ヴァイオリニストほど好んでこれをレパートリーに加えた事実は何を物語るのか。簡単な話だ、つづまるところ人をうつのは――音楽は――心であってリストのような超技巧によるのではない。そうでなければティボーが、クライスラーの名演中からブラームスを選びはすまい。
 ――余談ながら、クライスラーは一九二六年、パリで、バッハの第二番、ベートーヴェン、メンデルスゾーン、それにヴィオッティの第二十二番イ短調の各協奏曲をひいたそうだ。一ぺんにこれを聴いてまるで天にも昇る歓びだったとミルシュテインは述懐している。そうだろう、私だってこれらを――とくにヴィオッティのそれを、クライスラーで聴けるなら明日死んでも本望である。ベートーヴェンとメンデルスゾーンはレコードがあるから言えることなのは勿論だが、それにしてもヴィオッティならどんなに甘美で素晴しかろう。ブラームスが、このイ短調に感動したのは有名らしいが、そういうことは抜きにして、ここには、このヴィオッティには、往年の名声を取りもどすことができず不遇のうちにロンドンで客死する彼の嘆きが、聞えてくる。遺言がきこえる、クライスラーならこんな甘い辞世の語り口もあるのか――そうなふうに弾いてくれたろうと想う。LP初期のころ、ピーター・リバーのこのレコードがあった。ステレオになって(今は廃盤だが)アイザック・スターンの弾くのを聴き、怒髪天を衝くおもいが私はしたものだ。グリュミオーも入れているらしいが、また腹を立てるのでは馬鹿らしいので未だ買わずにいる。重ねていうが、この曲が鍛冶屋の悴の思いあがった感傷程度では困るのである、失意の遺言を、ぼそぼそ呟いてくれねばならない。弦の温まるのを惧れるこころ遣いの独奏者でないと困るのである。

 ブラームスは生涯に少なくとも四度、恋をした。クララと、アガーテと、エリーザベト、それにシュピースと。
 このうち、大学教授フォン・ジーボルトの娘アガーテとの恋が一番若く、二十五歳のころで、婚約発表を友人たちが予期したにも拘らず、「結婚によって自由が束縛されることを恐れ」るというこじつけとしか考えられぬ理由によって、別れる。エリーザベトの場合は、彼女がブラームスに弟子入りを希望したのだが、そのまれにみる美貌に「必要以上に惹かれる」のを惧れ、友人の弟子にしてしまう。この臆病さは、ぼくらには痛いほど分る。彼女はけっきょくライプチッヒの指揮者兼作曲家と結婚するが、ブラームスは後に彼女とは友人関係を保ち、何回も文通して新作を書いた折には批評を乞うている。女々しいようだが、ブラームスはそういう男なので、この女々しさもまたわたしにはよく分る。
 若い声楽家ヘルミーネ・シュピースとは、婚約成立の噂さえ立てられた。ブラームスはこのとき既に五十歳で、彼女のために歌曲TおとめUTわたしの思いはあなたのもとにUT早まった誓いUT二人はさまよい歩きUT誘拐UT早くおいでUT舟の上でUT訣別Uなど(作品九六、九七)を書いている。しかしシュピースは、才能もあり、至極明るい女性だったらしいが、容姿の点で難があったのか、ブラームスは歌手への魅惑をコントラアルトのアリーチェ・バルビに感じるようになって、彼女の結婚による告別独唱会には、バルビのために全曲目のピアノ伴奏をかって出たという。こんな言い方がゆるされるなら、ブラームスを抱きしめたいほどこれまたぼくらには分る話だ。
 結局、ブラームスは誰とも結婚しなかった。出来なかったというのが真実にちかいだろう。
 一八九二年に、美貌のエリーザベトが、翌年にはシュピースが、更に三年後にはクララが死んでしまう。その年の五月に、クララの死の予感と、おのれの落着かぬ気持から、聖書をもとにT四つの厳粛な歌Uをブラームスは作るが、クララには終に知ってもらえなかった。クララの死去を報らされると、その葬儀の行なわれるフランクフルトへ彼は直行する。しかし間違った汽車に乗って途中手間取り(動顛していたのだ)葬儀に間に合わずボンで漸く埋葬の列に加わる。それから一年満たぬうちに、クララのあとを追うごとくブラームスも死ぬ。死因は肝臓癌。ずいぶんくるしかったろう。
 こうした、一八九二年以降の相尋ぐ女性たちの死は、むろん作品一一五の『クラリネット五重奏曲』が作られた後のことだ。私の聴き方が正しいなら、自ら遺書をしたためてから、当然、生き残ってくれるはずのかけがえない友人たちを、遺書を書いた本人が生きて次々見送らねばならなかった。文を草した遺書なら破り棄てれば済む。作品一一五はすでに発表されているのである。残酷な話である。クララやエリーザベトやシュピースの死んでゆくのを見送るブラームスを想いながら此の『クラリネット五重奏曲』を聴いてみ給え。遺書として聴き給え。作品が、時に如何に無惨なしっぺ返しを作者にしてゆくか、ものを創る人間ならつまりは己れの才能に復讐されるこの痛みが、分るだろう。前にふれた太宰治の死も、同じことだ。三島由紀夫だって結局は、同じところで死んでいる。『クラリネット五重奏曲』がそう私に告げてくる。聴いてくれ、太宰治と太宰を嫌悪した三島由紀夫と、どちらも本当はどんなに誠実な作家だったかを、この曲の第二楽章アダージョから聴き給え。二人の肉声がきこえるだろう? くるしい、生きるのは苦しかったなあ苦しかったなあ、そう言っているのが、きこえるだろう?……ブラームスは私にそう囁いている。涙がこぼれる。
 死のつらさを書かぬ作者は、要するに贋者だ。
 そいつは初めから死馬である。幾らだってだから書ける。狂うことも、自殺することもないわけで、死馬ほど安楽な状態はあるまい。シューマンはその点、所詮、死馬に耐えられなかった。彼の作品は、悉く若い時代に為したもので、私に言わせればシューマンは音楽家よりは文学者になるべき人だったとおもう。彼の作品活動は、その良いものは三十二歳までだ。音楽に向っては、若い裡にしか流露しないそういう才能なのであり、あとの十余年は、死馬になった己れとの闘いだったろうと思う。ライン川への投身はその意味では、潔い行為で、精神錯乱と呼ぶのは死馬の輩だ。しかもシューマンには、しっぺ返しを喰うほどの才能の結実さえ(作品四一の弦楽四重奏曲、同四四のピアノ五重奏曲、それにピアノ四重奏曲を除いては)なかったと、私なら言う。少なくとも作曲上不可欠な構成力といったものが、彼には欠けていたのではなかったかと。
 音楽史的には、ドイツ・ロマン派における標題音楽の、また自由作曲形式でのシューマンは祖であり、そのピアノ曲は幻想に満ちている。シューマンを抜きにして恐らくブラームスの古典的な作品は考えられないだろう。が、それでもシューマンの才能はしょせんは三十代どまりのものだと私は思っている。こう言っていいなら、クララと結婚すれば涸れるのである。
 シューマンとの結婚を、クララの父フリードリヒ・ヴィークが猛烈に反対したのはよく分るのだ。シューマンがピアノの勉強のためヴィーク教授の家に寄宿して、初めてクララを知るのは彼女の十一歳のときである。彼自身は二十。四年後、同じヴィーク家にピアノを習いに寄宿したエルネスティーネにシューマンは恋を囁く。エルネスティーネは十七歳の乙女だ。フォン・ブリッケン男爵の娘で、ヴィーク家に寄宿して二ヵ月後には、もうシューマンとひそかに婚約するほど親密な仲になっている。ここな女蕩し奴、ブリッケン男爵でなくても、ヴィーク教授でなく私でも、そう言って結婚には猛反対するだろう。シューマンは二十四歳である。そして十五歳のクララの心はすでにシューマンに傾いていたのだ。可哀想なクララ、ブラームスが当時一緒だったらそう叫んだに違いない。
 シューマンはそれから五年後、『アラベスク』作品一八を書いた。こう言っている「ウインのすべての女性たちに愛される作曲家になりたい、ぼくはそう念じてこれを作ったのです。」結構だ。たしかに曲趣は変化に富み、甘美で、感傷的気分横溢である。だがこんな青年に私なら絞め殺されたって娘をやりたくはない。シューマンは、自分で著述もした書籍商の父と、外科医の娘で教養高い母との間に生まれた。文学に対する傾倒は父から、鋭敏な感受性は母にうけ継いだと言われる。七歳のときにピアノを習い始め、十二歳ごろには作曲もしている。併し中学の終り頃から、バイロンをはじめ多くのロマン派作家の作品を愛読して、とくにジャン・パウル・リヒターの幻想的作品に深い影響をうけたという。ライプチッヒ大学では、母親は法律の勉強をさせたが、法律よりは哲学に興味を寄せ、カントやシェリングやフィヒテの観念論哲学に耽った。それが、パガニーニの演奏を聴いて、忽ち己れの道は音楽以外にないと痛感してしまう。
 要するに、感受性がきわめて鋭敏でナイーブな、それだけ他からの影響に染まりやすい青年を想像すればいい。自らの意志ではなく、感性の反応で行動してしまう多感な人間を。
 意志の弱い者は構想の一貫しない嫌いがある。つまりシューマンは、かならずしも音楽家でなければならぬ男ではなかった。まして、ヴィーク家でピアノのレッスン中、指に無理をかさねた結果、右手を痛め、ピアニストになることを断念せざるを得なくなってしまう。音楽で身を立てるには、先ず演奏家として名を挙げねばならないのは当時の常識だ。シューマンは音楽家になるべきではなかったのだ。それが、だが、あくまで作曲に固執する、傍ら文学的労作にも力を注ぐが。
 何故なのか、十七歳の令嬢エルネスティーネがいたからである。その結婚が猛反対にあって、成就しないと、あとにはクララがいたからだ。

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 シューマンの処女作(作品一)はTアベッグ変奏曲Uと名づけられ、二十歳の時に作曲された。演奏時間八分ほどの小品である。レコードには出たためしを知らぬので私は聴いていないが、TアベッグUというのは、メタ・アベッグなる令嬢の名から来ているという。彼女はマンハイム生まれの良家の娘で、当時ハイデルベルクの大学生だったシューマンの、友人の一人が夢中になった。シューマンは Abegg の姓を、A(イ)B(変ロ)E(ホ)G(ト)の音にあてはめ、これを主題として変奏曲に仕立てたわけだ。そしてパウリーネ・フォン・アベッグなる架空の女性にこれを献呈しているが、こうした《遊び》がシューマンは相当に好きだったらしい。Tダヴィッド同盟舞曲集U(作品六)が好い例だろう。こんな同盟は、実在しやしない。ダヴィッドの名は、旧約聖書に出てくる羊飼いのダヴィデから取ったもので、ダヴィデは異教徒フィリステルすなわちペリシテ人と戦い、巨漢ゴリアテを石投げで倒した勇者だ。それでシューマンは音楽上での、保守派もしくは俗人どもをフィリステンと呼び、これに対する自分たちの正義の士をダヴィド党と称した。そんなダヴィド党員が、同志に心のありの儘を打ち明けるかたちをTダヴィッド同盟舞曲集Uは採っている。シューマン二十七歳(一八三七年)の作である。
 彼はこのころクララと手紙の交換をはじめ、互いに結婚への意志を確かめ合っていた。しかしクララの父ヴィークに拒絶され、二人で苦しみ悩んでいた時代である。でもシューマンは挫けず希望に燃える心をダヴィド同盟員に打明ける。クララに与えた手紙によると、此の曲は「二人の(将来の)結婚式に集まってくれた同盟員の談合ぶりを描いたのです」というわけで、各舞曲の終りにはFもしくはEの署名がしてある。Fはフロレスタンで、Eはオイゼビウス。言うまでもなくフロレスタンは、シューマン自身の明快で積極的な面を代表する筆名であり、オイゼビウスは瞑想的消極的一面をあらわすネームだ。どちらもご丁寧にダヴィド同盟員ということになっている。そんな作品である。又、この二年前、二十五歳で作られたT謝肉祭U(作品九)にはシューマン自身がこう書いている。「――この曲は殆ど全部、特別の目的のために書いた。すなわちASCHの音符の上に立ったものだ。アッシュはボヘミアの小さな町で、私の音楽上の知人が住んでいる。又これらの字は不思議と私の名前の中にも含まれているので云々」ことわる迄もなくAはイ、Sはエスと読むのでEsすなわち変ホ、Cはハ、Hはイを意味するが、ASCHという町はたしかにボヘミアとザクセンの国境近くにあり、実はあのエルネスティーネの生まれ故郷である。アッシュがつまり娘のエルネスティーネをヴィーク教授のもとに弟子入りさせたブリッケン男爵で、彼女との結婚を男爵に拒まれたシューマンは、一時、彼女を慕ってアッシュまで行っている。そういう事情のもとで、ASCHの四音を中心に二十曲からなるT謝肉祭Uは作曲された。因に、第一曲「前口上」から第二〇曲「フィナーレ」まで、それぞれの曲に題がつけられているが、ここでも(終曲で)俗物フィリステン派はダヴィド同盟員に圧倒され、ダヴィド党の大勝利の行進が披露されるという仕組みだ。又この中の第一一曲には「キャリーナ」の題があるが、これはクララをイタリア語で呼んだものという。念をおす迄もないだろうがT謝肉祭Uの作られたときエルネスティーネは十八歳。二年後にTダヴィド同盟舞曲集Uが書かれシューマンはクララに結婚を迫るのだ。ようやく十七歳になったクララに。父親ヴィーク教授の猛反対は当然の措置というべきだろう。T謝肉祭Uのあと、同じ二十五歳で完成したTピアノ・ソナタU第一番嬰ヘ短調(作品一一)でシューマンはクララへ「貴女に対するただひとつの心の叫びだ」と書き送った。この曲にはそして「フロレスタンとオイゼビウスからクララに捧ぐ」の献辞がある。エルネスティーネへの愛は、もう男爵の拒絶にあってさめていたと識者は言うかも知れない。結構だ。だがASCHの四音で構成した曲の直後に、このソナタはぼくの貴女に対する心の叫びだと書く男の倫理性の欠如を私は問題にする。それが師の愛娘であれば猶更である。
 ブラームスなら到底、こんな色事師めいた文句は死んでも書けなかったろう。倫理の欠如自体をシューマンに責める気は私にはない。少しも。だが倫理観の欠如した人間には所詮、断片でしか美は創れない。シューマンに構成力のないことは前にも言ったが、とりもなおさず彼には倫理観が無かったからと私は言う迄である。倫理を有たぬ男に人の心を搏つものが創れようか。ブラームスのあのヴァイオリン協奏曲のハートが、感動がのぞめようか。おしなべて倫理のない音楽を私は却ける。そんなものは才能があれば足りるのだ。才能なら私にだってある。私は音楽に倫理を聴きたい、神よ、それは私に欠けているからだ……そんな祈念の如き懐いで私は音楽を聴いている人間だ。
 かくて私には、シューマンはつまらない。その浪漫的――シューマン自身の言葉を藉りれば「ドイツ人に特有な《情緒的と知的とのたくみな融合》で、フランス語には無い感じ」のTユモレスクU(作品二〇)に、クララがよくアンコールに使ったというセンチメンタルなT花の曲U(作品一九)に、あるいはきわめて抒情的なその歌曲の幾つかに聴き惚れることはある。たしかにそれらは珠玉のごとき小品である。だが断じて小品で、こう言ってよいなら片々たる美にすぎない。私は曲趣を一貫する倫理性を欲するものだ。悪漢あのワグナーにさえそれは儼としてあり、多くの人に憎まれ社会通念に背きつづけた背徳者のネガティブな倫理観ともいうべきものがワグナー楽劇の底流に血を奔いて流れている。私はその意志の勁さに感動する。シューマンにはないものだ。意志薄弱な人間の、私同様な甘さがあるだけだ。シューマンがつよい意志で生きるのはあのライン川に身を投じる時だろう。紛れもなくそのとき甘い男はどっと倫理の血をほとばしらせた。精神錯乱ではない、もっとも正気なモラリストとして――こう言っていいならリアリストになって、彼は死を選ぶのである。だが遅すぎたのだ。死馬は愧じることしかもう出来なかった。シューマンの音楽に、だから遺書はない。リアリストが遺書など書くわけがない。死後のくさぐさに想をめぐらすのはロマンティストだけだろう。
 何にせよ、処女作に向って人は成熟する、というあの説をとるなら、Tアベッグ変奏曲Uには架空の人物を描くことで自慰したがる空想家の、文学青年臭のつよい人間像がもう出ている。シューマン自身はこれを出版するとき、「私の心は希望と復讐とに満ちて、ヴェニスの公爵のごとくに誇っている。いま私ははじめて偉大な世界と結婚したのだ」と自負したそうだが(武川寛海氏の解説より)単調すぎる出来というので批評家には黙殺された。自負と客観的評価とのこうしたズレは一そうロマンティックな彼の性向を刺戟するのに役立ったろうとは、考えられることである。
 ブラームスとクララの話に戻ろうか。
 クララは十歳の少女のころからすでに天才ピアニストとして活躍していた。シューマンは一八四三年(クララと結婚後三年目)頃から、クララと、ロシア、ライプチッヒ、オランダ、ハノーバーなどに演奏旅行を行なっているが、要するに、女流ピアニスト、クララの相伴指揮者みたいなものだった。ことさらシューマンに過酷な、これは言葉とは思わない。シューマンのピアノ曲が、幻想に満ち、はげしいパッションを内に秘めて決してけばけばしくならず、また大袈裟にもならぬいぶし銀の品格を保っていること、その声楽曲には、きわめてこまやかな抒情性を湛えた、高い評価をうけて然るべきもののあるのは百も承知で、私は言う。クララあってのシューマンだ。シューマンは竟にそんな音楽家ではなかったのか。
 いわゆる「歌の年」(一八四〇年)に作られた夥しい歌曲を見るがいい。この年秋にクララとシューマンは結婚するが、そのよろこびの予感と歓喜なくして生まれる曲でないことは、彼自身の告白をまたずとも頷ける。またその恋愛がどんな性質のものかは例えばT女の愛と生涯Uを聴けば分るだろう。第二曲「誰よりもすぐれている貴男」は、恋人の男性を讚美し、自分はそんな彼にふさわしくない女ではあるまいかと惧れる歌だが、このおそれは至純な愛に共通の虔しさで、それをシューマンは美しい旋律で綴った。綴らせたのはクララの敬虔さに他なるまい。また第三曲ではこんなふうに歌われる――「わたくしにはわからない、信じられない、夢に欺かれたのだわ。どうしてわたくしのような哀れな女を高めて下さり、幸せにしてくださったのだろう。T私は永久におまえのものUとおっしゃったようだった、夢でも見ているみたいだった。そんなことは、ありはしないのに。死なせて下さい夢の中で。あの方の胸で、ゆすぶられたまま。」
 言う迄もなく歌詞そのものはシヤミッソの筆になる。あの人をみてからは盲になったにちがいない、どこをみてもあの人だけしかみえない、目ざめて夢でもみているみたい……そんな娘時代の恋情にはじまって、結婚、出産、夫の死と、文字通りひたむきな愛に生きた女の生涯を、その心理を綴った詩にシューマンは音譜を付した。畑中良輔氏の解説にしたがえば、
「詩の推移につれて音楽的内容もその明暗をともにし、ピアノ伴奏部は、従来の伴奏という概念をくつがえして独自のピアノとしての世界をひらく。時にはピアノ曲に歌がついていると思われる曲さえあり、シューマンのこうした歌曲は従来のどの作曲家もなしとげなかった感情の微細画を、われわれにみせてくれた。それまでの歌曲の世界に味わうことのなかった愛の心理――歓びといたみ――が如実に拡大されて迫ってくるのである。」
 畑中氏は更に語を継いで、クララへの激しい慕情のこれはみごとな開花であり、これらの美しい歌はとうていクララを切り離しては考えられず、古今を通じ、およそ恋愛にモチーフをとってこれ程みごとな作品を作りあげた作家はないだろうと言う。確かにその通りだが、クララの側からシューマンを眺めればどういうことになるのか。
 クララは紛れもなく学術文化の中心都市ライプチッヒに住む著名なピアノ教授の娘で、まだ無垢なる女でたまたまその思春期にシューマンという青年が寄宿して来た、シューマンは炭鉱町の生まれだった。でも優しくて、頓知に富み、模倣の才能があり感受性がゆたかで、何よりも同宿した男爵の令嬢の心をたちまち捉える美青年だった。そんな青年と、父の弟子である令嬢との秘めやかな愛の語らいの場を十五歳の少女クララが目撃しなかったわけがない。目撃すれば、思春期の多感で鋭敏な少女の心が波立たぬわけがない。どうして私のような哀れな女を高めてくださり、幸せにして下さったのかしらとT女の愛と生涯Uの歌詞は歌うが、自分は恋する相手にふさわしい人間かどうかを危惧しおそれるべきは、明らかに炭鉱町に育ったシューマンの方だろう。この倒錯が先ずヴィーク教授を憤らせたに違いないが少女には通じない。右手を痛め、ピアニストとして世に出るのを断念しなければならぬ男こそが、「どうして自分のような哀れな者を高め、幸せに貴女はしてくれるのか」と、本来なら歌うべきところを、乙女の清純な感性にとり入って、「あんなにもやさしく親切で、だれよりもすばらしいあの方。やさしい方、澄んだ眼、立派な考え、そしてしっかりした勇気……」(「だれよりもすぐれた貴男」―大木正興氏の[歌詞大意》より)と憧憬させるそんなシューマンの青年特有な厚かましさは一そうヴィーク教授には、我慢なりかねたろうと思う。大事なことだが、必ずしもヴィークは娘への溺愛だけでシューマンとの結婚を反対したわけではない、ヴィークも一流のピアノ教師なら、シューマンの音楽的才能、その将来がどんなものかは見抜いたに違いないのである。見抜いた上で、愛娘の幸せを慮って教授は反対した。反対の仕方だけが少々常の父親らしかったにすぎない。だが反対したのはシューマンに倫理観の欠如を見たからだろう。クララの、シューマンを失って後につらぬかれた倫理性は、ヴィークその人のものに他なるまいと。ブラームスとクララをついにへだてたものも畢竟は同質の倫理性だ。
 シューマンは、「おそらく私の作った中でもっとも熱情的な楽章だ」と自ら告白するT幻想曲Uハ長調(作品一七)の第一楽章を、ベートーヴェンのピアノ・ソナタをなぞって書いた。(その第一楽章末尾はベートーヴェンの「はるかな愛人に」の一部だという。)そのシューマン自身のピアノ・ソナタ第一番嬰ヘ短調(作品一一)は、いろいろソナタ形式の中で新鮮味を出そうとはしているが、情熱と幻想ばかりが先行し、「凝りすぎて混乱し」お世辞にも傑作とは言い難いし、第三番ヘ短調(作品一四)の中心となる主題は、曾てクララの書いたものの引用である。シューマンは又、T交響的練習曲U(作品一三)に、あのエルネスティーネの父ブリッケン男爵の作ったフルートのための旋律を剽窃している。シューマンのピアノ協奏曲イ短調は、メンデルスゾーンのピアノ協奏曲をきいて急に完成したくなったものであり、そのヴァイオリン協奏曲もまた、ヨアヒムがデュッセルドルフの音楽祭で演奏するのを聴いて感銘をうけ、自分も作りたくなって同年秋に完成した。いかにもベートーヴェン的重厚さをもつ出来上りで、シューマンは相当自信があったらしいがこれを贈られたヨアヒムは一顧だにくれず、握りつぶし、演奏会に採上げなかった。シューマンを私は貶しているのではない。はじめに言った通り、つまりはきわめて他からの影響に染まりやすい感性をもち、自らの意志ではなく、そんな感性の反応で行動してしまうそういう彼は音楽家であったことを、言っているまでだ。
 エルネスティーネが目の前に現われたからエルネスティーネを愛した。彼女との恋愛に破れると、こんどはいつの間にか娘に成人したクララがいたのだ。パガニーニの演奏を聴いて音楽家になる以外自分の進む道はないと思いこむ青年が、目の前にクララを見てクララを愛する気になるのは至極当り前のことだ。ただ乙女のクララには違う。その違う理を彼女はブラームスを見て知るのである。

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 大事なことを忘れるところだった。
 シューマンは、クララとの結婚を裁判によって勝ち取っている。父親ヴィークを相手どり、勝訴してはじめて彼女を妻にした。くり返すまでもないがヴィークはシューマンには先生である。父親としてではなく、師としてヴィークはこの結婚に反対したのでないと、誰に言えるのか。愛情では説得できず、音楽の天分ではましてそれをなし得ず、裁判という、第三者の、容喙をまたねばクララを自分のものに出来なかったというこのことだけで、シューマンを私は信用しない。
 これも書き洩らしたが、シューマンの姉の一人は精神に異常のあったことが記録されている。シューマンには精神異常者の血が流れていたのかも知れないし、大方の史家が説く如くライン河に身を投じたのは、神経の疾患によることでべつに死馬の己れを愧じたからではない、と見る方が無難だろう。精神に異常のある男なら、そして師の愛娘を裁判にかけて奪うようなことも平気でやれるだろう。だが大事なのは、どうしてクララを得たかではなく、如何にクララを愛したかだ。おそらくブラームスなら師の愛娘をそんなふうに、とても奪えなかったろうと私は思う。ブラームスは、そういう愛し方はしない。芸術家が、精神に異常があっても別段かまいはしないことで、多少、常人とは異なればこそ芸術なんぞに夢中になる。要はいい作品を書いたかどうかで、シューマンの場合、その文筆活動――音楽評論をとるかぎり別に異常らしいものは認められない。したがってヴィークとの係争は、正常な判断によったことと見ていいだろう、となれば益々、いやなシューマンは男である。このいやさは畢竟、神をもたぬ男のためかと私には思われる。
 シューマンの作品に、神が、リルケ的にいえば《神への方向》を目指したものが、あるなら教えてもらいたい。リパッティがシューマンのピアノ協奏曲を、二枚、入れている。一つは若い日のカラヤンとのもの、もう一つは死ぬ前に、ジュネーブで最後のリサイタルを開いた時の実況盤だが、この二枚を聴くと、シューマンというのは非常によく分る。後者の場合、病身のリパッティは終楽章あたりでは、今にも力が尽きそうで、かろうじてアンセルメの棒に支えられ弾き了るのだが、その痛々しい指が響かせているのこそ紛れもないシューマンの芸術である。カラヤンとのは、リパッティの演奏がつねにそうであったように作・リパッティのピアノ協奏曲と聞える。シューマンは素材にすぎない。それがアンセルメ盤になると、強烈なリパッティの個性を以てしても譜に凭れかかる演奏だから、良かれ悪しかれシューマンの全貌が露呈されている。こう言っていいなら、だから案外つまらぬ作品になる。
 クララ・ヴィークは、そういう音楽青年シューマンと結婚した。彼女はピアニストとしては天才少女だった。シューマンは前にも述べた通り、ピアノの上達を焦って右手薬指を挫き、ついにピアニストたることを断念せざるを得なくなるが、こんな馬鹿げた咄はない。何十キロもの重い物を動かしているわけではない、素手で、鍵盤を敲くのだ、ど素人の練習としか思えない。しかもピアノ教授ヴィークの家にいてである。ベートーヴェンを考えてみよう。四歳のときから過重な練習を父に強いられ、その父親は夜中に酔って帰って来ては少年ベートーヴェンを叩き起し、夜の明けるまでピアノを弾かせた。プロになるためには当然な試煉だった。七歳でピアノを習いはじめ、この時すでに作曲をシューマンは試みたというが、十八歳でヴィークにピアノのレッスンを受けるようになって、その練習に没頭し、十九歳の秋にはピアニストとして世間に知られるようになり、頻りに社交界に出入りし、二十歳でパガニーニの演奏に感動して、法律を捨て音楽家になることを決心する。それからの練習で、右の有様である。どうして指を挫くのか? 「たるんどるからだ!」日本の軍隊の教官なら、この一喝で片付けたろう。指に、生まれつき欠陥があったのなら、いかに厳しさのないシューマンだってまさか、ピアニストになろうとは思うまい。指を挫くのは、要するにクララに負けまい、ヴィーク教授に認められようという焦りからにきまっている。でも焦って指を挫くようでは、それだけでピアニストとしては駄目だろう。指など挫かずともヴィークは匙を投げていたに相違ないのだ。
 そんな男が、娘クララを奪った。そういう男が作曲家として世に立った。まんざら才能がないわけではないだけに始末に困る、とひそかにヴィークは舌打ちしたかも知れない。シューマンは一八一〇年生まれで、一年前にはメンデルスゾーンが生まれている。同じ一〇年生まれにはショパンがいる。一一年にはリストが生まれ、一三年にはワグナーとヴェルディが生まれている。もちろんヴィークが、シューマンと殆ど同世代にこれだけすぐれた音楽家が輩出したのを、すべて知っていたわけではあるまい。クララと正式に結婚した一八四〇年(シューマン三十歳)といえば、ワグナーは賭博の負債から夜逃げ同然にミンナ(当時の妻)を伴ってパリに往って、赤貧の生活を送っていたし、ヴェルディは十九歳の妻と二人の幼児を、相尋いで急逝で喪い、そのスカラ劇場のために書いた喜歌劇Tウン・ジォルノ・ディ・レーニオUがまったくの悪評で、落胆のあまり音楽を捨てようかと悩んでいた。だがショパンはこの四〇年にはすでにパリ(ピガール街)でジョルジュ・サンドと同棲し、むろん二十四のT練習曲UやT前奏曲U、幾多の夜想曲、即興曲、ワルツを発表していた。そればかりか二十五歳で(一八三五年)ライプチッヒにやって来たショパンをヴィークは娘やメンデルスゾーンと共に歓迎している。シューマンもこの時二十五歳で偕にショパンを歓迎したが、彼がクララに愛情を明かすのはこの前後からだ。クララはまだ十六歳である。当時ショパンは竹馬の友フェリックス・ウオジンスキーの妹マリーに夢中だったし、十六歳の少女など眼中になかったろう。だが、これがシューマンならどうだったか知れたものではない、何故ならシューマンにもエルネスティーネはいたのだから。結局、ショパンがヴィーク教授の弟子であっても、果してクララに手を出したかどうか――この辺に、ショパンとシューマンの稟質、人格の差、つまりは音楽の違いをヴィークが見抜いたと想像しても、さしたる誤謬を犯したことにはなるまいと思う。
 くり返すようだが、ことさらシューマンに私はつらく当っているのではない。伝記を詳細にしらべると、シューマンほど正体のはっきりする音楽家は多分いないだろうと思うから、書いている。
 シューマンは倖せだったのである。ワグナー、ヴェルディ、ショパン、メンデルスゾーン、それにリストと殆ど同時代に生まれたことで、とかく目高は群れたがるというが、群れなければ存在のかすんでしまう才能は、群れることで己れを保持し、群の一匹が時流に乗れば一緒に名をあげる。ワグナーがめだかなわけはない、ワグナーは一匹狼だ。ショパンもついには孤高の才能だ。リストは大嫌いだから知らないが、メンデルスゾーンは辛うじて群の一方の雄だろうか。そのメンデルスゾーンさえバッハの音楽――とりわけT受難曲Uとカンタータを一般に普及させたことでどんな傑作を書くにも勝る貢献を音楽史上になした。時にメンデルスゾーン二十歳であった。また二十九歳(一八三八年――クララとシューマンの結婚する二年前)には、ケルンの音楽祭を指揮して当時まったく一般に知られなかったバッハのカンタータを復活している。
 ヴェルディとなると、事情は更に明らかだ。ヴェルディは北イタリアの寒村に生まれ、人家わずか数十戸の小さな村で、父親は細々と宿屋兼食料品店を営んでいた。この村は併し、古来クレモナからパルマへ抜ける行商人や旅音楽師の往反する土地だったので、宿屋の悴ヴェルディは幼少の頃からそんな音楽師たちを通じて音楽への夢をふくらましていた。
 ヴェルディの父親は、音楽的素養などまるでないが、旅音楽師のひとりでここを定宿にしていたパガゼットが、幼いヴェルディの素質を見抜き彼を音楽家にすることを父親にすすめる。父親はこの提言を容れる。七歳のとき、ようやく念願かなって村の教会オルガニスト、ピエトロに就き本格的な音楽の手ほどきをヴェルディは受けるのだが、音楽に対する情熱は異常なもので、一年後にはピエトロはもうヴェルディに何も教えることが無くなってしまったという。同じ頃、ヴェルディは父親にオルガンをねだるのだが、しがない稼業の父にはオルガンまでは手を出す余裕がなく、やっとの思いで中古のスピネット――鍵盤つき撥弦楽器。チェンバロの一種――を買い与える、その熱意に感動した調律師は無料で修理したという。
 こうしてヴェルディは二十歳のとき、オルガニストのピエトロが死んで、父親はブッセートという、寒村から三粁ほど離れた都市の名望家アントニオ・バレッティに依頼して、ヴェルディをその土地の靴屋に奉公させ、ブッセートのハイ・スクールに通わせる。おかげでヴェルディはバレッティの主宰するブッセート楽友協会のメンバーに加わることが出来、しばしば、バレッティの娘マルゲリータとピアノの二重奏を行なって人々から喝采をうけるようになる。
 バレッティは、酒商で財をなした人だが、楽友協会の人々を中心にブッセート・フィルハーモニーを組織し、パルマ県の名士でもあった。
 そのオーケストラの指揮者で聖バルトロメオ大聖堂のオルガニストであるフェルナンドが、少年ヴェルディが丹念に楽譜を筆写しているのを見て、目をかけ、四年間、助手として働かせる一方、オーケストラの下稽古をまかせる。ずいぶんこれはヴェルディには勉強になるが、一方、バレッティも亦かれの才能を高く評価し、奨学金を受けてミラノの音楽院で本格的に勉強するように取り計らう。もっともこの裏には、娘マルゲリータとヴェルディの恋を裂こうという下心があったというから、どこの父親のすることも変りはない。かわっているのは、靴屋に奉公した若者はシューマンみたいな甘ったれた人生は考えなかったことだろう。バレッティも亦、世の常の父親の心情は別として、ヴェルディの才能そのものは疑わなかった。ミラノで一年余、ヴェルディは音楽の勉強をするが(ミラノ音楽院への入学は規程によって十四歳未満でなければならないのに、既にヴェルディは十八歳だったので入学できなかった。そこで個人教授に就いてピアノと作曲、それにソルフェージュを学んで)翌年六月、ブッセート時代の恩師フェルナンド・プロヴェジの死を告げられてブッセートに帰る。ここで再び楽友協会の人々と旧交をあたためるが、同時にマルゲリータとの愛をゆるされて、結婚生活に入るのである。時にヴェルディ二十三歳、新妻マルゲリータは十六歳。
 ミラノへの新婚旅行を了えると、ヴェルディはブッセートに戻り、フィルハーモニーの仕事や作曲に没頭した。そして最初のオペラを書いた、無名の青年のこの作品はだが世に出なかった。
 一八三七年三月(結婚の翌年)に、娘ヴィルジニアが生まれる。翌年つづけて男児イチリオが生まれる。舅バレッティはこの二人の孫を目に入れても痛くないほど可愛がったというが、ヴィルジニアはイチリオが生まれると間もなく早死し、二年後にはイチリオと、最愛の妻マルゲリータをも喪うのである。(ヴェルディがオペラTナブッコUの成功で名声を獲るのはこの悲嘆の二年後――一八四二年の春だ。悲嘆のあまり音楽を捨てようとした彼を励まし、TナブッコUを書かせるのはヴェルディの才能を信じたスカラ座の支配人メリルと、プリマ・ドンナのジュゼッピーナ・ストレッポーニだが、しだいに彼女と親交を深めたヴェルディが正式にジュゼッピーナを妻にするのは二十年後――ヴェルディ四十六歳の時である。)
 むろんこんなヴェルディをシューマンの生き方と比較してみたところで、大した意味はない。ヴェルディの音楽そのものは、実のところ私はあまり好きでない。イタリア歌劇のあの両手をひろげて唸りまわすアリアには屡々閉口するし、イタリア・オペラを軽蔑したワグナーの心境に私はちかい方だ。イタリア歌劇を観ていて、アリアのおわる度に喧しく拍手する観衆にも、何か知性の欠如を覚えることがある。拍手を一切禁じたワグナーの爽やかさよ、だ。
 したがって、歌唱を鑑賞するならシューマンの歌曲の方がましと私は思っている。その私でもヴェルディのオペラに時に衝たれるのは、ヴェルディには神がいるからだ。母国イタリアへの愛国心だ。神とは、民族の発生から終末にいたるその民族の人格に他ならないといった意味のことを、たしかドストエフスキーは語っていたが、神をどう意義づけるにせよそれの有ると無いとでは、天地ほどに差のあることを私は言っておきたい。ワグナーにも神がいる。異なる民族は、その民族の数だけ異なる神を有ったって構いやしない。ショパンも祖国ポーランドという神をもった。シューマンには、ない。クララがいるだけだ。しかもクララを断じて女神とは彼はしなかった。だから裁判にかけることが出来た。
 神をもたぬものに、死が問われるわけがない。その音楽にはT死Uがない。シューマンは畢にそれだけの作曲家だ、と私は思っている。もちろんシューマンの育った十九世紀前半の世相――全体としてはロマン主義の時代に属するが、民主思想と自由主義の擡頭にともない、すべての階層が歴史の担当者として登場し、自己の権利を主張できた。又、イギリスに始まった産業革命は、当然、それまでの経済態勢をくつがえすと同時に、産業革命の基底にある自然科学の発達と、唯物的傾向、実証主義思想ともいうべきものをいちじるしく伸張させた。
 神はいなくて当然であり、そういう時代背景を抜きにしてシューマンの音楽は語れないと、諸井三郎氏などは指摘されるが、まったくその通りだろう。それは分る。だが、時代背景なんぞでぼくらは音楽を聴くのではない、少なくとも私は御免だ。私が聴きたいのはいい音楽である。そしていい音楽とは、倫理を貫いて来るものだ、こちらの胸まで。シューマンにはそれがない、死がない。それがデムスの弾いたシューマンであっても、だ。