自分の言葉で、自分流にふだんは誰でも喋っているのに、何か公的な意見を述べる立場になると、どうして皆よそ行きの、改まった言葉づかいになるのか。土着の訛りのつよい日常語で話している男が、何故、弁論大会には標準語をつかうのか。標準語でないとその意見に理解と客観性が有たれぬとでもわれわれは思いこんでいるのか。――或る女流ヴァイオリニストのリサイタルを聴きながら、とりとめもないそんなことを私は考えていた。演奏が拙かったからではない。グリュミオーの個人教授をうけ、昨年帰国した彼女――石田なをみ嬢は、むしろ大変質の良い音を聴かせてくれた。この国の女流で、私がじかにヴァイオリンを聴くのは、潮田益子さんの場合を除けばこの日が初めてだが、グリュミオーといえば、エネスコの弟子なので、つまりはエネスコの孫弟子がわが国の風土でどんな成長をみせてくれるか、私のようなエネスコ崇拝者には大変楽しみな、期待のもてるソリストだったから、この日――帰国第一回のリサイタルを聴きのがしているので――文化会館小ホールに石田嬢をたずね、開演前のがらんとしたホールで先ず練習を聴かせてもらった。ルクレールの有名なソナタ(ニ長調)の冒頭が鳴り出したとき、その音のよく透るのに私は愕いた。
 グリュミオーのヴァイオリン――とりわけそのモーツァルトには白痴美しか私は感じない聴き手で、どうにもグリュミオーをエネスコの弟子とはレコードを聴くかぎり、思えなかった。(グリュミオーがエネスコではなく、デュボアの弟子というなら、私にとってグリュミオーはどうでもいいヴァイオリニストである。)

 石田嬢の弾くルクレールには、自宅で暗殺された十八世紀の此のすぐれたヴァイオリン作曲家の、不幸な生涯など聞えて来ない。そんなものを期待する方が無理だろうし、むかしの、ティボーが聴かせてくれたあの同じルクレールのTタンブランUの優婉な雅趣を、若い彼女に要求するつもりもはじめから無かった。かえってこちらも気楽な気持で聴くつもりで、さて鳴った音の冴えに愕いたのである。
 ホールの反響の所為かとも思う。潮田益子さんのを聴いたのはN氏邸のサロンで、大変身近な場所に私は居た。その時の音よりも、石田嬢のは芯が通っていて、よく響く。これは大したヴァイオリニストがいてくれたものだと嬉しかったのを白状しておく。念のために人気ないホールの端から端へ、ゆっくり歩いて音の透りを聴き較べたが、何処で聴いても響きに変りはなかった。
 さて開演の時間が来て、リサイタルが始まった。最初がルクレール、尋でモーツァルトのK四五四のソナタを彼女は弾いたが、まるで、音が変っていて聴けたものではない。これには驚かざるを得なかった。何に喩えればよいのか。ブルペンで快速球を投げるピッチャーが、さてマウンドにあがるとまるでスピードの死んでしまう例はよくあるが、打者と対決するのを意識しすぎて、力んで、投球にスピードが乗らないと専門家は言う。しかし、打者へのボールが死んでいるのでは、ブルペンで如何に快速球を投げようとそんなものは速球の持ち主とはいえまい。この例で石田さんを評するのは、併し適当ではない。――といって、では聴衆は吸音材に等しいともいうから、ガランとしたホールでは良く響いたが聴衆の詰まった分だけ、音が消されたのかというと、そうでもなさそうである。第一、それほど多数の聴衆が詰めていたわけでない。せいぜい六分の入りであった。結局、グリュミオーに如何ほど個人レッスンを受けても、こちらの聴きなれたモーツァルトや、次のベートーヴェンのソナタ第七番あたりになると、もう名演にぼくらの耳は馴れすぎていて、少々の演奏では満足できないためかとも思われる。そうならしかし、話はかんたんだろう。理由は他にあるのだろう。
 その理由を、リサイタルの間ぼんやり考えていて、自分の言葉で、自分流に話す習性といったものに想い到った。
 音楽は、申してみれば非常に訛りのつよい方言に似ている。バッハはバッハの訛りでしかその美を、思想を語らない。バッハに限らず、すべてのすぐれた音楽家は己れの育った(芸術の)土着の言葉でしか話さない。その語り口の訛りが、つまりは彼の音楽ということになろうか。方言は模倣できるが、どれほど模倣しても、ほんの僅かなエロキューションの差も土着の人間の耳は聞き分けるものである。
 演奏は、畢竟するに語り口だと私は思っている。演奏家も亦独自の訛りを有つ。その訛りでバッハやモーツァルトの方言を模倣する、その辺の兼ね合いに奇妙な味の生ずるのが、聴いて快ければ、ぼくらはその演奏を佳しとするわけだろう。無論こう言ってみたところで、エネスコやブッシュのバッハの素晴らしさを何程も解明することにはなるまいが、まずい演奏の拙さを説明するには、まあこんな言い方でもするほかはあるまい。そして訛りを所詮は土着の人間しか語れないことを知れば、なまじ、方言を模倣するより標準語で話すほうが無難にきまっていて、そこで、凡庸な演奏家ほど標準語を用いたがる、という仕儀になる。総じて音楽教師の演奏がこの標準語になる。更に忌憚なく言わせてもらえば、凡そ日本のソリストで――ヴァイオリニストであれピアニストであれ――自分の訛りで語れるソリストはいない。皆、標準語を話すのに手一杯だ。
 石田なをみさんのヴァイオリンの音にはだが、訛りがあった。これは貴重なものだ。ブラッセルのベルギー王室国立音楽院ヴァイオリン科を、最優秀名誉一等賞≠ナ彼女は卒業しているが、また翌年(一九六八年六月)同音楽院室内楽科を首席で卒業したそうだが、演奏技巧のことは素人には分らない、ただ、名誉一等賞にふさわしいのは彼女の鳴らした音の、非常に優れたその訛りではなかったのかと、勝手な想像を私はしている。この想像は私にとって不愉快ではない。素質の優れたヴァイオリニストを我が国は有つのである。したがって、モーツァルトやベートーヴェンのハ短調ヴァイオリン・ソナタが冴えなかったのは、リサイタルなので、矢っ張り標準語で語ろうとした為だろうと、これも勝手に想像した。練習と同じ弾き方をしたと彼女は言うにきまっているが、こちらには違って聞えたのだから仕方がない。
 実を言うと、この日のリサイタルでぼんやり私の考えたことは、もう一つ、ハルモニヤ・ムンディの音である。例えばペンデレツキの『聖ルカ伝による主イエス・キリストの受難と死』のレコードについて。
 この曲のことは以前にも書いたからここでは触れないが、レコードはハルモニヤ・ムンディ盤を私は聴いていた。五年ほど前、それが日本コロムビアからも出るようになって、偶然、両者の音を聴き較べたことがある。指揮、合唱団ともポーランド初演の際のメンバーによるものだが、その音が、あまりに違いすぎたので呆っ気にとられたことだった。とても同一の曲とは思えず、冒頭の、ローマ祈祷書の「十字架への讃歌」を混声コーラスで唄い出す前のオーケストラの音が、まるで別物で、とりわけ低域の弦のひびき具合が到底、同じオーケストラとは思えない。もともと日本プレスは欧米盤に較べて、高域の繊細な美しさと輝きに劣るというのが、あちらの盤を聴き馴れた愛好家の通説になっているが、低域をこんなにまで持ち上げられては、演奏への冒涜ではないのかと、コロムビア盤を聴いて私は思った。私自身が、ノイマンのカッティング・マシンを操作して、自分で、レコードを刻んだことがあるので知っているが、カッティングに際して、マスター・テープの音を聴きながら録音されたその音の高域や低域を強調・もしくは減衰するのは一にかかって、現場の技術者の判断によることで、少々ダイナミック・レンジは犠牲にしても、再生音に破綻のない、適度に臨場感をもつ原音の生々しさをひき出すには、どれほど、カッティング技師の適確な決断が必要かを私は知ったわけだ。レコードでいい音を聴くためには、つまりはミクサーに於けると同様の音楽的教養、美しい再生音への認識がカッティング技術者にも要請される。ペンデレツキの『ルカ』をカッティングしたコロムビアの現場では、その点、大きな思い違いをしていたのではないかと思う。
 こんど、ハルモニヤ・ムンディの国内盤が、テイチクの洋楽グループで発売されることになった。テイチクといえば、われわれクラシック愛好家にはおよそ縁のないレーベルで、事実「クレモナの栄光」と題する、グヮルネリやストラディヴァリの音色の差を聴かせてくれる一枚位しか私は聴いたことがないが、レコード製作技術そのものに関しては古くから定評のあるメーカーで、一時ハイファイ・マニアに話題を呼んだノイマンのSX六八にせよ、スチューダーC三七の録音機にせよ、ソニーなんかより余っ程前にスタジオで使用されていたのを私は知っている。またそのカッティング現場には、汐見氏といってその道のベテランがいることも個人的にだが、知っている。
 ハルモニヤ・ムンディ盤は、大変、録音の秀逸なレコードで、今のようにそれが西独バーディッシュ(BASF社)に統合される以前から、カール・オルフのものやバロック音楽の何枚かを私は聴いてきた。難をいえば、盤質のわるいことで、繰返し掛けていると針圧二グラム程度で、高域の鮮度に劣化を来たす。少なくとも我が家に於てはそうだった。
 その点、国内盤はかえって盤質がすぐれているから有難い。試みに、こんど発売された国内盤のバッハ『管弦楽組曲』と、デムスがシューマン当時のピアノ(一八三九年製ハンマーフリューゲル)で弾いた『子供の情景』を、ハルモニヤ・ムンディ盤と聴き較べてみた。汐見氏がカッティングしたのかどうか分らないが、あの爺さまが現場で睨みをきかせているなら、この程度の美音は当然とも思える。『管弦楽組曲』など、ハルモニヤ・ムンディより高音は優雅でなめらかな響き方をする。(ハルモニヤ盤はチリチリ耳を刺す感じで鳴っている。)デムスのシューマンは、これはもう極め付きともいえる名演で、同じデムスの戴冠式≠ヘ如何に一七九〇年製ハンマーフリューゲルで弾かれても、私には頂きかねるモーツァルトだが、『子供の情景』は好い。
 話がそれてしまった。
 リサイタルで私の考えたことは、日本コロムビアとハルモニヤ・ムンディの音の差は、何に由来したかであり、デムスのシューマンが良くてどうしてモーツァルトはつまらないか、グリュミオーの弟子が何故モーツァルトを私の期待したようには弾いてくれないのか、そのくせ、若いこの女流ヴァイオリニストをどうしてこうも私は好きでいたいのか。理由を糾したところでまっとうな回答の返ってくるはずのないそんなことを、考えたというより、実のところ、彼女の演奏に私は聴いていた。自分流にそれらの答を出そうとしたら、標準語と方言に想い到ったわけだ。この回答も私ではなくて、彼女のヴァイオリンの音色が出していたのかも知れない。
 もう一つ、このリサイタルで合点したことは、われわれオーディオ・マニアも亦、自分風な訛りを以てしか音楽を受けつけてない、ソノリティとは所詮そういう訛りの美学に違いあるまい、ということだった。機械は、標準語を標榜するにきまっているが、標準語で鳴ればバッハやモーツァルトの訛りが忠実に抽き出されるわけではなさそうである。ぼくらは、だから同じレコードを各自各様な音で再生して聴いて、けっこう、演奏の良否を識別できるのではないか。訛りは歪みとは違う。この違いを聴き分けるところからレコード音楽の鑑賞が、同時に大変な誤解が、はじまるのだろうか。とはいえ、誰も自分に訛りがあるとは知らない。土着の人間に訛りなどはない、訛りは他所者が来てはじめて気づくのである。元来、標準語は他境へ出向かぬ者には必要ないもので、おもしろいことに、えらい芸術家ほど出歩いたりはしないものだ。オーディオのグレードアップ――この標準語の味気なさを知れば、それがどんなに他愛のない業か、よく分る。