これまで私の体験したことが、オーディオに関心をもつ、若い人たちの参考になればとおもう――
 私がはじめてステレオを聴いたのは十年前で、銀座の日本楽器店でテレフンケンS8型を購入した時である。百二十万円だった。プレヤーはノイマン、カートリッジは同じくノイマンDST。SW・AM・FMの聴けるコンソール型で、べつに2トラックのテープレコーダーが附いていた。
 当時のことだから、無論、ステレオテープやディスクは海外品に俟たねばならない。さて聴いてみると、これが意外に音が悪い。というより、聴くに耐えない。そのくせレコードで放送されるのを聴けば――むろん当時のFMでモノーラルだが――わが家自慢の、高城重躬先生設計になるコンクリート・ホーンの音よりいいのである。私だけがそう思うのではなくて、誰に聴かせても問題にならないという。ホーンの開口部は約二メートル平方、ジムラン15インチのウーファー2個を、当時としては珍しいマルチ・アンプで鳴らしていた。スコーカーは同じく開口部約1メートルホーン型で、ツィーターにはワーフデルと、タンノイ・モニター15の高音部を併用した。アンプは高城先生に作ってもらった。
 そんな大仕掛けで聴くのと同じレコードを、FMで受信したら、テレフンケンの音質が数段すぐれた繊細さと、つやと、ふうわりした低音をひびかせる。あっ気にとられた。
 私は高城さんに、どうしてFMは音がいいのですかと尋ねた。NHKで、どんな悪いカートリッジでレコードを放送しているかを、当時私は知っていたからだ。しかし高城さんは確答されず、S8型でステレオを聴いてもらった時も黙ってられた。
 しかるにその後、T週刊朝日Uの座談会で高城氏は「外国製ならいいとまだ思っている人がいる。或る小説家は百万円も出してテレフンケンを買いましたが、あの半分はキャビネット代ですね、飾り家具みたいなもので……だいたいコンソール型で、いい音は鳴りませんよ」そんな意味のことを言われていた。
 たしかに、ステレオの音は悪いのだからお説の通りかも知れないが、しかし、FMで聴く限り、理想的なコンクリートホーンよりテレフンケンは音がいいのはどういうわけか。S8型は、ツィーターが4個、スコーカー同じく4個、ウーファーは1個で、今でいう3D方式の変形だろうかとも思う。私はシロウトだから、もしかすればノイマンのカートリッジが悪いかとおもい、当時高城氏ご推薦のオルトフォンを接続してみた。やっぱり駄目であった。スピーカーが悪いのかとおもい、タンノイ2個を別のキャビネットに組んで鳴らしたが、駄目。ではアンプかと、リークのステレオ用に接続したが、やはり駄目。ステレオできこえるというだけで、到底、FMを受信した――それをテープに録音した――モノーラルの張りのある美しさ、輝きにも及ばない。私はあきらめ、以来S8型ではFMを聴くことだけに満足した。
 ところがその後、本誌でも述べたようにハンブルグでサバ(SABA)を買い、ロンドンへ渡ってデコラを聴いて驚倒し、タンノイのオートグラフと、テレフンケン・オッパス(OPUS)を買った。オートグラフをクワードで鳴らした時はじめて、ステレオ感なるものを味わったが、これは大事なことだ。今もってだがテレフンケンで満喫したあの、FMの輝くばかりな音の美しさを私は自分のものにしていない。
 FMで、ステレオが受信できるようになって、ずいぶん多くのチューナーを聴いている。はじめはサバで聴き、それからオッパスを聴き、クワードのチューナーをきき、ハーマンカードン1000、グルンディックRT50、トリオFX6A、ダイナコ、ラックスWZ30、ソニーST5000、マランツ10B……ほぼ、各メーカーの製品で最高といわれるものを聴いている。OPUS以外はアンプに適不適もあろうかと考え、クワード、アコースティックおよびIA、ナショナル・テクニクス10A、40A、デッカ・デコラセパレート、マランツ7Tおよび8B、ジムランSG520ならびにSE400S、マッキントッシュC22にMC275……ほぼこれも各社の最高のアンプにそれぞれつないで聴いた。マランツのチューナーは38万円という、べらぼうな値段だが、さすがに、精巧で音質は群を抜いているようだ。ただし東京で聴くためには、受信周波数を変更せねばならず、私のはナショナルのオーディオ技術部がいじってくれたもので、「自信をもって直しました」とはいうが、完璧かどうか分らない。10Bにはオシロスコープがついていて、そのセンターにチューニングのポイントを合わすようになっているが、アンプ温度の上昇につれて比奴、移動するからである。多少の移動は、不可避としても少々ひどい。それでも、ソニーの5000と比較すると低音域ののびといい、高音のつやといい問題にならないので、目下はマランツで聴いている。エンクロージァの問題もあろうが、アンプはマッキントッシュが合うように思う。
 ただ、プリの方は、どうかするとJ・B・Lのグラフィック・コントローラーにつないだ方が音にひろがりがあり、臨場感にまさるようだ。又おもしろいことにJ・B・Lのプリとメインできくより、プリをC22にしてメインだけをSE400Sにきりかえると、琴の合奏など一層ナマの音にちかくなる。
 これは読者諸君に知ってもらいたいのだが、だいたい、タンノイには石より真空管アンプが合性がよいと、一般に言われてきた。瀬川氏なども本誌上でこの点を力説している。瀬川君はタンノイを、どんなエンクロージァにおさめて聴いたんだろう。奈良に、マランツの球アンプを愛用しているNさんという、音にうるさい御仁がいる。N氏はアルテックで聴いている。が瀬川氏によればアルテックにもジムランは合わないそうだ。ところが拙宅のSE400Sを持参して、N氏のマランツ7型プリにつないだら低域ののびや、音の解像力は信じられぬくらいよくなった。拙宅で、7Tにつないだ時もそうだった。マランツのプリにはマランツのメインが一番いいはずと思っていたのだが、必ずしもそうではなかったのである。
 むろんこれは、むしろスピーカー・エンクロージァに原因が(もしくは欠陥が)ある為かともおもう。私はけっしてジムランのSE400Sをマランツよりすぐれているとは言わない。石らしくない音のやわらかさと、低域の重厚なのびでは私の知る限り、アコーステックIAが最高だった。しかしIAにも不満があり、ダイナミックレンジに不足する。岡俊雄さん宅で、AR3で聴いたときは気にならなかったが、うちのオートグラフで他のアンプと聴き較べるとダイナミックスの迫力に欠けるのである。それに音の像が、ぼやける。この点ジムランは、分解能とダイナミズムで一頭地を抜いていた。瀬川君のお説の通りだった。だから一度瀬川家のスピーカーシステムで聴いてみないと、本当のジムランのよさは分らない。ただ、瀬川家の試聴室は6畳ぐらいだそうなので、そういう狭い部屋で音のかたちやプレゼンスを、真に識別できようとは――大がかりなシステムであればあるほど――私は疑問に思うのである。ジムランのパラゴンを6畳の部屋で聴いたことがあるが(マッキントッシュC22とMC275で)いやな音だった。
 私は、市販された限りにおいて、国産と輸入を問わず、いちおう名のある製品は聴いてきた。本誌あたりがとりあげるもので、聴いてないのはCMラボぐらいだろうか。マッテスはテレビ音響の試聴室で何度か聴かせてもらった。あの試聴室にはうちのと同じオートグラフが据えてあるが、耳を疑いたくなるほど悪い音で、部屋の条件が音質を左右するあんな悲惨な例は、パラゴン以来である。
 これは部屋のせいだろうと思う。われわれが知っている以上に、音は部屋がつくる。スピーカーやアンプではない。そして一つの部屋で、たとえばジムランのアンプにかえて音がわるくなれば、ジムランが悪いのだ。逆にジムランに代えてよくなったら、部屋の(又は音質の)諸条件にマッチしたそのジムランはいいとしかぼくらは言いようがないだろう。誤解をまねくかも知れないが、身銭を切って買い、自分の住んでいる部屋で聴いて、よくないパーツを客観的に(あるいは特性の上で)いいはずだなどと言ってみてもはじまるまい。イニシャティヴは、聴くわれわれ自身にある。またタンノイやローザーがそのエンクロージァにどれほど音質を左右されるかをぼくらは知ってきたが、今や部屋全体もあきらかに一個のエンクロージァと見做すべきだろう。おもしろいことに、あれほど音の悪かったテレフンケンS8型を、一個のスピーカーエンクロージァとみなして最近、マッキントッシュで鳴らしてみたが、その音のいいのに一驚した。どうかすればオートグラフより音にリアリティがある。高城氏は値段の半分は箱代だと言われたが、たしかにオートグラフだって箱代だけで六十万円はするのだ。いかに高城氏がスピーカーエンクロージァには(つまり音づくりについて)アマチュアだったかを知り、私は笑ってしまったが、音というのはそれぐらいコワイものだ。
 諸君が、スピーカーを、アンプやカートリッジを変えれば音がよくなると期待する気持は痛いほどわかる。私自身が、そうして一応かえられるだけのものは世評のよいものに変えてきた。その私が老婆心で言う、客観的に、およそ、最高のパーツなどはあり得ない。
 高城さんのお宅でご自慢のホーンの音を幾度か私は聴いている。たしかに歪のない、スケールの大きな重低音をきくことが出来る。だが進呈するといわれたら私はことわるだろう。これは私一個の好みではなくて、奈良のN氏も同様の意見だった。「評判倒れで失望しました」N氏は試聴のあと、悲しそうにつぶやいた。高城先生を私は譏るつもりは毛頭ない。何処かにこれこそと唸るような素晴しいステレオが鳴ってくれていることをわれわれは期待し、夢想してきた、その期待が高城家で裏切られたということだけの話である。
 では高城先生の音の、どこが気にくわなかったか?
 一言でいえば、音は鳴っているが楽器がない。その位置が明らかでない。人声をきくと一層これは明瞭で、たしかにソプラノを聴いても、バスをきいても倍音の余分な音をともなわずナチュラルな感じで鳴る。藤原義江氏の言葉ではないが、「ツィーターとかいうやつは、シャ、シィ、シュ、シェ、ショとしか唄わん」ような悪声ではない。併し歌手がいない。高城家のあのリスニングルームで、どこからともなく空間いっぱいに、バリトンや、ソプラノのアリアがきこえているだけだ。声を出す人間――歌手の貌がない。姿がない。化け物である。これを私は〈正体不明の音〉と称する。
 オーケストラも同様だった。各楽器群が、とりわけティンパニィが、凄まじい迫力をきかせるが、ティンパニィがうまく鳴れば交響曲を理解できうると思える人は仕合せである。それにティンパニィや大太鼓はオーケストラの当然後方上段に置かれている。うしろで轟かねばならないのに高城先生宅ではその位置不明で、突如として、いかにも皮を敲く音だけがとび出してくる。
 或る意味で、これは高城氏の責任ではなく、2トラックで立体感を出そうというステレオの致命的欠陥かもわからない。或いはマルチ・アンプシステムの、又はトランジスターアンプの欠陥かも。或る人の説では、スピーカーの指向性を排除しようとすればどうしてもそうなると言うことだった。つまり無指向性を企図すると楽器の定位はくずれるらしい。が、果してそれだけの理由で、正体不明の音になるのかどうか、シロウトの私には分らない。
 私自身は、今は音質そのものより音像に心をひかれる。本誌で今度特集しているマルチアンプシステムへの諸段階を、私も試聴してみた。たしかに、全域のスピーカーで鳴らすよりは、ツィーター、スコーカーを加える方が音の歯切れはよくなった。交響曲でたとえると、部分的に、ツィーターをつけた方が第一ヴァイオリンの音抜けはいい。ウーファーを加えた方が低弦の延びはいい。だがその代り、各楽器群はそれぞれ音の自己主張をやりだし、指揮者はいなくなってしまう。何のために指揮者はタクトを振るか。ひっきょうは音の統一と、調和を欲するからだろう。音楽のハーモニィとはそういうものだろう。音楽を鑑賞するのに(ことにクラシックの場合)音の統一を失っては演奏とはいえまい。ピアノソナタでも同様で、3ウェイにしたら音質そのものは良くなろうが、極言すれば右手はスタンウェイを、左手はヤマハをたたいている。単体のスピーカーなら、音質は多少劣っても同じピアノを弾いている。
 くり返すが、そんな、或る部分の音の良さで再生装置が改良されたと思い込むのは、早計だと私は言いたいのである。ティンパニィがうまく鳴れば、ティンパニィのすごくきこえるレコードばかりを集めたくなるのは人情だ。音楽鑑賞の本質から、それが、どれほど君自身を毒して行くかを言っておきたい。一応市販されるものの最高のチューナーや、アンプや、エンクロージァを買い揃え、いろいろ日数をかけて聴きくらべた私のこれは実感だ。マッキントッシュは確かにいい。その良さはジムランにもマランツにもクワードにも求められない。しかし同時に、それだけの良さに比肩する別な美点をジムランはもっている。マランツはもっている。クワードが更にはサンスイのAU777さえがもっている。あなたがサンスイをマッキントッシュにかえたところで、あなた自身が享受する音質向上は、音楽そのもの、曲そのものの感銘に較べればわずかなものだ。ステレオ雑誌の宣伝文や広告にまぎらわされてはならない。一応の水準で鳴っているなら、装置に金をかけるよりレコードを1枚でも多く買いたまえ、名曲を聴きたまえ。さんざん装置に金をかけた私が自分の愚さを痛感して、これを言う。コンクリートホーンでオルガンの重低音やペダルの音がなまなましく聴こえれば嬉しくなって、オルガンばかり鳴らしたくなる。人に聴かせたくなる。あげくの果ては、台風で物干し台のこわれる音など録音して随喜する。高城先生への皮肉ではない。私自身が同じコンクリートホーンで、そういう音に狂喜したアホウさを体験したから言うのである。
 オーディオの世界は、アンプやスピーカーシステムをアテにして語られるべきものではない。生活するあなた自身が、日常生きているその場で論じるべきものだ。音色を支配するのはパーツではなく、あなたの生活だ。部屋だ。経済的余裕ができれば、広いリスニングルームを建てればよい。そこで始めて、その部屋にふさわしいパーツが見出されるであろう。
 オーディオマニアの喜びは、遂に、生活している場所にふさわしい音楽美をつくり出す所にある。コンクリートホーンでなければ低音が出ないなどとウソぶくやからは、度し難い偏執狂だ。私は断言するが、高城家のオールホーンの音より、私の家のタンノイオートグラフより、あなたの部屋の音楽がつまらないなどということは、絶対にあるわけがない。アンプは国産だろうと単体スピーカーであろうと、あなたがその装置で音楽を聴き込んでいる限り、他人のどんな装置よりもあなたには、大切なはずだ。その大切さがあなたの内面に音楽を生む。(一九六八年)