一九五七年冬、私の誕生の報せをうけて、父が最初にかけてくれたレコードは、バッハの平均律クラヴィーア曲集第一巻、冒頭のプレリュードであった。それは、ランドフスカ夫人のクラヴサンによる演奏で、「まさにオリンピアの平静と晴朗さ」とリーマンのたたえた曲である。これが父からの祝福のことばであり、父と私のはじめての出遇いである。

 私は、オーディオについてくわしいことは全くといってよいほど知らない。しかし、なによりも、テレフンケン、マランツといった機械の名は、父をなつかしく想い起こさせる。なにもわからぬにせよ、門前の小僧で、ずいぶんと私は、父のつくりだした音に対して生意気なことを言ってきた。子供のころは、どことなくこわかった父も、中学に通うようになってのちは、試聴する際、よく私を呼ぶようになり、学校から帰宅するなり、ご自慢のスピーカーの前に坐らされ、ふたりで、こちらのほうがいい、いや、ソプラノの声はあとにかけたほうがのびやかだなどと、夕食もとらずに音にとりくんだ。夢中になると、父は一晩中でも音楽を鳴らしている。母と私は、真夜中、どんなに大きな音で鳴っていようと、目を覚ますことはない。時折り今でも、父の部屋で音楽をかけるのだが、不思議と私はよく、絨毯の上にころりと横になりねむってしまう。たとえようのない安らぎがそこにはある。そこには父がいる。
 母は音楽を聴いているときの父がいちばん好きだという。父がひとり静かにタンノイオートグラフの前に坐り、音楽を聴いているときの表情はとても厳しい。まだ二十年余しか生きていない私に、父の音楽への姿勢を語りうるとは思っていないが、瞭らかに、父は、流れる音楽のなかに神を視ていた。バッハ、モーツァルトをとおして神の聲をきいていた。それは父にとって、もっとも敬虔な時間であったと思う。だから私は、音楽と対峙している父の真摯な横顔をみるたびに、どうしても声をかけることができなかった。
 父が音いじりをするとき、また、テープを編集するときは、たいがい、だぼだぼのパジャマに母お手製の毛糸で編んだ足袋。冬には、駱駝色のカーディガンを羽織り、腰紐を締め、木樵のおじさんのような恰好で、蓬髪おかまいなく、胡坐をかいて一心に、テープを切ってつないだり、コードを差し換えたりしている。短気のせいか、無器用なのか、うまくいかないとよくヒステリーをおこし、ウォーッとか、エーイといった奇声が居間に聞こえてくる。すると、私と母は、またやっている、と目を見合わせほほえむ。試行錯誤の結果、気に入った音がでたときは、それはもう大喜びで、音楽にのって、親愛なるタンノイの前で踊っている。たまらなく幸福そうな表情で、そんな顔が私はいちばん好きであった。
 父亡き今、最高の鎮魂は音楽を鳴らすこと。それはわかっている。しかし、あまりに悲惨で、なかなかかけられなかった。そんなものかもしれない。父の音楽仲間の方が先日おみえになり、タンノイオートグラフ、マッキントッシュのアンプなど、父の大切にしていた機械とリスニングルームを写真にとって帰られた。それらは某誌に追悼として載せられたが、それをご覧になった諸氏は、主を喪った部屋だと、その何ともいえぬ寂寞を語っておられた。まさにそのとおりである。できることならば、毎晩のように、父の愛した音楽を聴かせてあげたい。しかし、もはや、私の手ではタンノイは鳴ってくれない。あのすばらしい澄明な、ふっくらとした気品にみちた音をきかせてはくれない。父の死とともに、殉死したのだ。そうとしか思えないではないか。
 私は五歳のころからピアノを習いはじめ、そしてご多分にもれず、高校入学とともにやめてしまった。ベートーヴェンの変奏曲まで進んでいたのだが、そのときはたいしてやめたことを気にせず、自分で弾きたいと思う曲があれば、勝手に楽譜を購入し、できる範囲の曲を弾いていた。いわゆるピアノのお稽古で用いるのは、多くはクラシックの曲であり、軽音楽に憧れて、友人といっしょにレコードをコピーしたり、また、ジャズピアノの教本を買ってきて、練習してみることもあった。バンドを組んで、いっぱしミュージシャンになったようなつもりになり、公衆の面前で演奏したこともある。しかしこれらは一種のはしかのようなもので、今では、クラシックの演奏会と、ニューミュージックのコンサートと、どちらに行くかといわれれば、もちろんその演奏者、曲目にもよるが、クラシックのほうを聴きに行きたいと思う。
 昨年の正月、二年ほど前に初来日した、クリスティアン・ジイメルマン(一九七五年のショパン国際ピアノコンクールで優勝したポーランドの青年ピアニスト)の演奏会のテレビ放送を見て、父が興奮して電話をかけてきた。ひさしぶりに精神の高揚をおぼえたという。演奏曲目はショパンのワルツ集である。そのあと、NHKFMで同演奏会の放送があり、父はこれを録音して、入院する前よく聴いていた。好んで聴いたのは、第七番嬰ハ短調作品六四の二と、第一〇番ヘ短調作品六九の二、美しい下降旋律をもつ二曲である。それを聴きながら、私は自分で弾いてみたいと思い、ふたたび、ピアノの先生の門をくぐった。
 父から贈られたもののなかで、私にとってもっとも大切なものは、ベーゼンドルファーである。オーストリアのウィーンに注文し、一年あまりかかって、海を渡って届けられた。全くの手造りによる、このベーゼンドルファーの清澄な響きはじつに美しい。悲しい哉、拙い私が、どんなにがんばっても、世界のピアニストのように弾けるはずもないのだが、タンノイが鳴ってくれない今、せめて、父の好きな曲を心をこめて弾きたい。「女にはショパンは弾けない」、「二十歳にもならない小娘にベートーヴェンのソナタを弾かせるなんて」、そんなことを仰しゃらずに、我慢してきいてください。
 雨が降る前のひととき、ベーゼンドルファーの優美な音色は、いっそうに輝きをます。私としては、どんな名盤に針をおとすより、モーツァルトの小品をこの音色で聴いていると最高だ。思わずうれしくなり、父をよびに行く。そして私は、きらきら星変奏曲のテーマを弾き、ふたりでそのすばらしい響きに歓喜する。父がオーディオの試聴をするときも同様で、父の思っている音と、私の意見が一致すると、父はうれしそうに握手をもとめてくる。私も誇らしげにそれにこたえる。この音における絶大なる信頼は、父にとって一年でもっとも重大な行事、毎年末にNHKFMで放送されるバイロイト音楽祭の録音を私に委任するまでに発展する。これはめったにないことなのだが、どうしても仕事の都合で帰宅できないときに代行するのだ。父の気に入るように録音できているときは、「ゆふ子ちゃん(ご機嫌がいいからちゃんづけでよんでくれる)がとったほうが、うまいこといくなあ」などと褒めてくれる。しかし、何かのはずみで失敗しようものならば、それこそ大変である。父の悲嘆と軽蔑を一身にあび、私はただただ、せめて、他の部分が気に入る音でとれていることを冀う。昨年は父が入院していたため、私が「ニーベルンゲンの指輪」を録音した。ところがあろうことか、肝心の、父の大好きな「ワルキューレ」第三幕の前奏曲、ワルキューレの騎行の部分をとりそこねてしまった。そのころ、父は病室にルボックスA700を置いて、以前に自分で録音したテープを聴いていた。私はおそるおそる、全曲をとり終わったあとそれらのテープを持参した。父は黙ってヘッドフォンをかけて聴いていたが、その失敗したところにくるやいなや、あーっと絶望的な声をあげ、私の四日間にわたる「指輪」との闘いは、あえなく水泡に帰したのである。

 昨秋、欧州を旅した折り、私はかねてより憧れの都ウィーンを訪れた。十月半ばをすぎていたのでとても寒く、凍えながら石造りの街を歩いた。朝、シュテファン大聖堂の鐘の音で目を覚まし、アウグスティン教会の礼拝のミサに参列した。夜は、ウィーンフィルハーモニー管弦楽団によるオペラやバレエを鑑賞した。古い楽譜屋、故郷をはなれ音楽の勉強にきている日本人留学生、カフェ「モーツァルト」の苦い珈琲の味は忘れられない。短い旅程のなかで、私をウィーンまで行かしめたものは、父であった。かつて父は、ウィーンにゆっくりと一カ月ほど滞在して、オペラや野外音楽会へ行きたいと母に語っていたという。だから私は、父の音楽への想いを追ってウィーンまで行ったのだ。ウィーンフィルを聴いてきたぞと言いたかった。ふーんと、はにかみながらも、うれしそうに微笑う父を見たかったからである。
 父は、ひとくちに言ってしまえば、純真な音キチである。いい音を求め、音楽を愛した一人の青年である。私はこの父の娘として生まれて本当に幸福であった。心からの感謝を献げたい。そして、これからも、すばらしい音楽を心をこめて聴いてゆきたい。音楽は、なにものにもかえがたい父の遺産なのだから。