ショパンがフランスに生まれていたら、多分フォーレのような作品を書いたろうと、日本のある音楽家は語ったそうだが、ショパンを――当然フォーレをも――知らぬ人の言葉である。断言するが、ショパンはポーランドへの愛国心を抜きにしては語れぬ意味でヒロイズムの芸術家であり、フォーレは、女ごころの側で綴られた音楽だ。女流がショパンを弾いて聴くに耐えたためしのないのがこれを証している。こう言っていいなら、ショパンは、ごつごつした男の手が奏でる抒情だ。
その点、ガブリエル・フォーレの作品は女流にも向いている。わけてバルカロール「舟歌」とノクチュルヌ「夜想曲」がそうだろうと思う。
戦前、「舟歌」にはマルグリット・ロンの名演のレコードがあったそうだが、こちらは当時フォーレなど知らなかった。私がフォーレに感動したのは戦後――それもルンペン同様な浮浪者のころで、いま思うと、あんな貧乏生活でよくフォーレがわかったものだと自分でも感心する。豊饒を知らずにフォーレは語れまいと、いまは思うからだが、まあ、貧乏でも精神的には青春の豊饒のなかにいたわけだろうか。
一枚というので、ここでは「夜想曲」第一番変ホ短調(作品三三の一)のはいったボックス盤(SVBX5424)を挙げた。演奏しているエブリーヌ・クローシェは、パリ音楽院を出た女流ピアニストとしか私は知らない。
フォーレは三十八歳で結婚した。相手は彫刻家の娘で、彼女マリーは装飾的なパネルを描いて県立美術館に買い上げてもらったり、扇絵を描くとそれがよく売れた。おかげで年収三千フランも稼ぐようになったけれど、夫フォーレの音楽は一文にもならなかったと、フォーレの息子は回想記で書いている。結婚三年目ぐらいである。でもこの三年のあいだに、フォーレのすぐれたピアノ曲の大半は書きあげられた。
「夜想曲」第一番もむろんその一つで、フォーレのすぐれた天分はすべてここに開花し、結実している。フォーレは全十三曲の「夜想曲」を書いているが、この第一番を白眉の作と私は推す。このあと同じ「夜想曲」第六番、ピアノ曲の最高峰をなすといわれる「主題と変奏」、それに「レクイエム」「ヴァイオリン・ソナタ」第一番を加えれば、フォーレの音楽は語りつくせるだろう。一文の足しにもならぬどころか、豊醇な稔りを有つ結婚だったのである。
フォーレは七十九歳まで生きた。死ぬとき息子たちに「わたしがいなくなったら私の作品が言っていることを聴きなさい」そう遺言したそうだが、遺言は息子でなくとも聴くことができる。また死に際に作られた作品でなければならぬ必要は、毫もない。九十まで生きても、三十五歳以降、作品の死んでしまっている芸術家は多い。
作曲家はむろん音符で思想を述べるが、こちらは物書きだから楽句はすべて、言葉に変わって聞こえてしまうのは、小説家の業だろうか? 或る旋律はあの借金をどうして払おう、そう呟いている。演奏のわるいのは、そんな独白に妙な情緒をからませたり、洒落た言いまわしをしようとするから始末に困るが、その点、フォーレの作品は女流が弾いても概ね控え目で、つつましい。きこえてくる言葉は上品で、男をすでに体で愛することを知っており、その愛のむなしさ、時には嫉妬に苦しみぬいた夫人の愁いを彷彿させる。
「夜想曲」第一番は特にそうだ。
もっとも、騒々しい今の世の中では、もうフォーレが描いたようなこんな優雅な夫人は、しだいに見当たらなくなっているが。