私も一人の娘の父です。
娘には幼少のころからピアノを習わせました。これは、娘をピアニストにしようと思うからではない。どんなにレッスンを重ねたところで、音楽の才能にめぐまれた子だと親の欲目で思ったところで、第一流のピアニストが日本で育つとは、私には思えない。私は文壇で多分、もっとも熱心にレコードを聴いている一人でしょうが、世界第一級のソリストたちの演奏を聴き込んでいると、ピアノに限らず、およそ西洋楽器をあつかう方面で、第一流の音楽家が日本に育とうとは思えないのです。
日本にこれは限りません。たとえばフルートですが、世界中でもっとも優れたフルート奏者の生まれるのはフランスです。ジャン・ピエール・ランパルをはじめ、フルートの名手はフランス人に限ります。これは日常言語であるフランス語の発音と、深い関係があるそうで、またリズム・セクションは、ラテン系民族にはお手のものでしょうが、ドイツ人には向きません。ラテン系の血をもつ、したがって純粋のチュートン(ドイツ人)ではないカラヤンが、ベルリン・フィルを指揮しながら、そのオーケストラのリズム感の欠如にしばしば指揮棒を投げ出すのは、専門筋では知られた有名な話です。時に癇癪をおこして、カラヤンはリハーサルを中止し、ジャズ喫茶へ飛び込むそうです。
言うまでもなくジャズは、リズムの快感で味わう音楽で、旋律の音楽ではありません。まあそれぐらいドイツ人というのは、リズムに対しては鈍重なので、そのかわりワグナーの無限旋律を見るまでもなく、およそ、息のながいメロディを演らせればドイツ民族の独壇場でしょう。指揮者クナッパーツブッシュやクレンペラーの出る由縁です。
同じ西洋音楽の領域においてもこれぐらい、民族によって――その言語習慣風俗のちがいで、すぐれたものと、そうでない分野がある。ある程度までは、熟練と才能とたゆまぬ努力で物にはなるでしょうが、真の意味でのソリスト――すくなくとも世界一流のピアニストを、日本では期待できぬと私の言う由縁です。ロン・ティボー・コンクールをはじめ、世界各国で権威あるコンクールに日本人が出場し、優秀な成績をおさめることはあるでしょう。しかし、それは、言ってみれば演奏家としてのスタートラインに立つ資格を認められたというまでのことで、本当の勝負は、それからの彼(もしくは彼女)の全生涯をかけた演奏活動をまたねばなりません。そういう息のながい芸術活動で、ピアノに関する限りまだまだ世界楽壇を舞台とする大成は、日本人には望めないことを、あらゆる国の、すでに第一線に出ている、ピアニストの演奏を聴いて、私は感じるのです。
理由は二つあります。簡単に申すと、演奏されるべきピアノ曲が、黄色人種の創作に成るものでないことが一つ。いま一つはわれわれの置かれている生活環境です。
くわしい説明は略しますが、さきのフルートの例と同じで、たとえばフォーレやドビュッシーをドイツ人が演奏してもおもしろくない。ブラームスをフランス人には完璧には弾けない。それならどちらも日本人には、一定の水準までしか弾けないだろうということは明らかです。二番目の理由は、日本人各家庭で教育用に、また練習用に弾かれるピアノそのものの音です。大部分はアップライトですが、ヤマハやカワイのピアノです。
演奏というのは、学芸会なら譜のとおり間違わず弾ければよい、これならヤマハだってスタインウェイだって変わりはない。しかし真の演奏は、いかに美しい音で弾くかにある。鍵盤へのタッチ、ピアニシモの抑え、ペダルのふみ加減――要はどれほど美しくその曲を響かせるかです。一音符の強弱が、時には曲を別ものにつくり上げてしまう、そういう恐ろしさを演奏家は知っています。
肝腎のその、音です。名前を出すのは遠慮しますが、ある若手の女流ピアニストは、自宅ではヤマハのグランド・ピアノで練習している、それがステージでスタインウェイを弾いても、ヤマハの弾き方をしているのです。つまりヤマハとスタインウェイでは、音の響き――のびが違います。日常どういうピアノで練習しているか、その女流ピアニストに限りません。少女たちの温習会を聴けば分かります。ヤマハは音の響きが弱いので響きやすいスタインウェイを弾くと、タッチが強すぎるのです。それですぐわかります。
来日する有名なピアニストは、お気に入りの調律師をつれて演奏旅行をします。そんなピアニストの推称した或る日本人調律師を私は知っています。彼は、ベーゼンドルファーの調律をやれば日本で一、二といわれる人ですが、十日間ヤマハピアノを聴いていると、もうベーゼンドルファーの調律ができないと言っていました。「耳がにごるから」だそうです。それぐらい、音というのはコワイものなのです。
われわれ日本人は、そういう意味で大方が、「耳のにごる」環境におかれている。自分だけベーゼンドルファーやスタインウェイで練習したって無駄です。ピアノ教師、小学校にあるピアノ、すべてが言うなら耳をにごさぬ環境でなければ、譜面どおりには弾けても芸格のある、真の演奏は望めないと私は思うのです。
私の娘が、むろんその習得した技術によって、ピアノ教師になることは彼女の自由です。小学生担当の音楽の先生になるのも可能でしょう。しかし断じて世界に通用するピアニストにはなれない、という悲しいあきらめは、こうした幾つかの理由によることでした。
といって、ピアノを練習させるのが無駄とは、けっして思いません。それどころか日常、音楽になじむのがどれほど情操教育に大切かを、身にしみて私は知っています。音楽は「いっさいの知恵・哲学的思考よりさらに高い啓示を聴く者にもたらすだろう」とベートーヴェンは言いました。音楽こそは、人格の涵養に欠くべからざるもの、情操をやしなうのに最上のものと私は思います。娘がピアノのお稽古をしてくれるのを見ると安心します。――ただ、世のいわゆる教育ママが、「天才教育」などと称して幼児にきびしいレッスンを課しているのを見ると、気の毒になり、老婆心までに、私の意見を述べたのです。