レコードを聴くのに、楽譜を見ながらでないと、その作品を観賞した気にはなれぬと言った人があった。レコード音楽(主にクラシック)の愛好家には、譜面の読めぬ人がむかしは多かったから、レコードを聴きながら総譜をめくっているのを見ると、なにか専門家のようで、いかにも深くその曲を理解しつつ聴いているように見えたものである。
だが、こんなのは、じつは単なるポーズにすぎず、言えば彼はスタイリストなので、まるで音楽などわかっていないと言っていい。或る意味では、素人の証拠である。
昭和二十八年ごろだったと思うが、或る高名な音楽評論家に、そのころ私の聴いた二、三のレコードの感想を述べたら、ぜひ自分にも聴かせてほしいと言う。「あなたは知らないのか?」
あっ気にとられて私が問い返すと、「いちども聴いたことがない。その曲が有名なのはもちろん知っているが、日本では残念ながら、まだスコアが入っていない」
一般にスコアを入手できぬ曲、したがって、たいへん有名であるが、わが国では初演の機会もない名曲が、当時、日本にはずいぶんとあることを、初めて私は教えられた。そんな作品をぼくらはレコードで、とっくに聴いていたのである。スコアを読まねば鑑賞した気がせぬとは、まさに素人の戯言だったわけだ。
――いまでは、あらかたの作品がクラシックと現代音楽たるとを問わず、その気になればスコアを取り寄せることはできる。しかしそんな現在でも、スコアを取り寄せるよりレコードを輸入したほうが手っ取り早い。一般にまだ名を知られない、世界各国の若手作曲家の仕事ぶりなど、スコアはなかなか入手できないだろうが、録音テープや、レコードで、曲の全貌をぼくらは知ることができるのである。こういう言い方がゆるされるなら、いまではもう、新しい作品は、製作者から直接一般民衆の前に提出され、その批判にゆだねられ、その中間に専門家、マスコミの批評眼の介在する余地はなくなった。専門家はせいぜい作品への批評ではなくて解説を、民衆の反響にみちびかれての解説を、多少かしこそうな専門語をつかってつづるにすぎない。そういう時代になってきた。音楽界にそしてこれは限らぬだろう。
すべての芸術活動――もしくは思想が、高踏的な識者の啓蒙活動を経ずに直接、民衆によって批判され、または否定される。いまでは識者はその跡を追っかけて、もっともらしい理由を附加するにすぎない。つまり解説者であって批判者ではなくなった。
むろん、大衆には「愚かな」とも言うべき附和雷同性があり、人気者を追っかける。カラヤン指揮の演奏、そのレコードとなると、山もわからずに聴きに集まり、賞賛するわけだ。あくまで音楽について私は言っているのだが、そういう附和雷同性のもっとも強烈なのは、アメリカ国民だろうと思う。ドルが世界を制覇していた時、ドルの威力でこの附和雷同性までが何か指導力に似た影響を、各国文化におよぼした。
多くのことをわれわれはアメリカに学ぶ必要はあろうが、附和雷同性まで真似ることはない。民衆にとって、真に必要なのは何が本当によいものか、りっぱなものかを見通す識見であり、批判力であり、そういう見識・批判力をそなえた指導者だろうと私は思う。言うなら、いまこそ真の批評家が必要なのである。そして常に世界思潮を指導する人、言うなら真の批評眼をそなえた人は、宗教的に、たいへん謙譲な人格なのを、私は知った。ずいぶんたくさんな音楽作品を私は聴いている。文壇で、おそらく私は最も多様にわたって音楽を鑑賞している一人だろうと思う。その私が、宗教をもたぬ作品はどんなにつまらないものかを、知った。偉大なものは、つねに宗教性に裏打ちされていることを、大バッハを例に出すまでもあるまいが、私は知ったのである。私の得たこれは最も大きな教えである。