カラヤンは低俗だと前回評したら、抗議の投書がかなりきたので、なぜ低俗かを説明しておく。芝居を例にとると、舞台に登場する人物の科白およびその生きざまはすべて脚本に規制され、すぐれた劇は、舞台で役者の登場をまたずとも脚本を読んだだけで、いい芝居だとわかるものだし、ストーリーのどのあたりで芝居はドラマティックになり、劇が高揚するかも、脚本でわかる。ところが、下手な役者にかぎって、ストーリーの高揚したドラマティックな場面にくると大見得を切り、どうだとばかりに力演する。つまり低級な演技である。すぐれた役者は、そういう場面ではむしろ芝居をおさえ、さりげなく演じるから燻銀のように演技は光り、ドラマの感動も深い。
 交響曲も似たようなもので、何楽章のどのへんが劇的かは譜を読めばわかるし、何度もその曲を聴いたものには、あらかじめわかっている。それを、大根役者のように大見得を切られたのでは聴くほうはシラけるばかり。なんと低俗な演奏だろうと思う。「第九」の極めどころは哀切幽玄の極致ともいうべき第三楽章アダージョ――トスカニーニはかつておのれの指揮したそのプレイバックを聴いて、なんと美しいアダージョだろうと涙を流した――と、ご存じ終楽章の“歓喜”の合唱だが、そのどちらでもカラヤンはまことに低俗な見得ばかり切ったからいやらしい演奏と私はいう。むかしはそうではなかった。
 昭和二十七年に米コロムビアからでた「魔笛」「フィガロの結婚」のカラヤンは素晴らしかった。モノラル録音時代のバッハの「ロ短調ミサ」もじつに淡々とカラヤンは演じ、しかも大きな感動をぼくらに与えてくれた。「魔笛」と「フィガロ」は二十数年たった今日でも西ドイツやウィーン、パリのレコード店で新譜同様に売られている。それほど素晴らしかったのが、帝王などとオダてられ、次第におかしくなったから堕落したと私は言う。今日のカラヤンを褒める人は一度、当時の「魔笛」や「ロ短調」を聴いてからにしてほしい。もう一つ、「第九」の演奏された普門館は六千人の聴衆が入るそうだが、演奏が開始されるとサンドイッチを食う聴衆がいたそうだ。第二楽章が終わったところで拍手した阿呆がいるのはFMでも聞こえたはず。こういう聴衆を私は恥ずかしいと思い、そんな連中に何がわかるかと思うのだ。