決着点も、きっとある。
よもやまの最近のブログ記事
到達点と終点は、ちがう。
オーディオも、こうやって毎日書いていっている行為も、
振り返ってみて、いくつかの到達点を通過していたことがわかる。
そこが終点ではないから、そのときには気がつかない。
その瞬間、「ここが到達点だ」と感じたときこそ、終点かもしれない。
オーディオの罠が、そうみせる幻覚なのかもしれない。
毎日書いていて、ふと想うのは、オーディオについて語り尽くすことはできるのだろうか。
これは、もう出逢いだ、と、金色のフロントパネルをみた瞬間に思い込んでしまったわけだ。
そういうときには、後先考えずに手に入れるしかない。
それが、オーディオマニアにとっての出逢いなのだから。
「出逢い」について急に書く気になったのは、いましがた早瀬さんから電話があったことも関係している。
京都からこちらにもどってきて、これから、JBLのSA600に電源を入れるとのことだった。
SA600はアーノルド・ウォルフの傑作だと思う。
ウォルフが、JBLでデザインしたものは、ベル・エアーが最初の製品で、
SG520、SE400Sなどの一連のソリッドステートアンプたち、有名なパラゴンがある。
それに初期のスタジオモニターの4310と4320がある。
同じ4300シリーズでも、4320と4343とでは、ずいぶん趣が異る。
4343もウォルフのデザインのように語られることがあるが、やはりこのへんのデザインは、
ここにも書いたように、ダグラス・ワーナーで間違いないはずだ。
おそらく4350からはじまったブルーバッフルも、ワーナーの発案だろう。
いま早瀬さんが愛用している4333は、4320と同じエンクロージュアのつくりと仕上げである。
つまりウォルフ・デザインのスピーカーだ。それを極上のSA600で早瀬さんは鳴らしている。
このふたつのウォルフ・デザインのJBLを手に入れるいきさつは、早瀬さんからきいている。
このふたつは、出逢うべくして、いま早瀬さんの手もとにある、といっていいだろう。
もう20年以上昔のある日、級にSUMOのThe Goldが欲しくなったときがあった。
それまではスレッショルドの800AやマークレビンソンのML2が、
ソリッドステートアンプのなかで、もっとも欲しいアンプであったのに、
その2機種とは、かなり性格もつくりにも、違う面を見せるThe Goldこそ、
不思議なことに理想のアンプのように思えてきた。
そうなると手に入れたくなるのだが、もともとそれほど輸入されたものでもないし、
故障率200%はいわれていたぐらいだから、
完動品となるとそうそう簡単には見つからないだろうことぐらいはわかっていたが、
それでも、ある日、仕事中に、なぜだか秋葉原に行けば、そこにあるような予感がして、
たまたまそれほど忙しくないという日だったこともあり、抜け出した。
驚いたのは、ほんとうに、そこにThe Goldがあったこと。GASのThaedraもあった。
ふたつとも手に入れたかったが、さすがにそれはふところがゆるしてくれなくて、
The Goldのみを購入した。
それでも、2つほど手持ちのオーディオ機器を処分している。
ステレオサウンドに勤めていたとき、通勤に使っていた電車は丸ノ内線と日比谷線だった。
1月11日、その日比谷線に乗っている夢をみた。当時のように、霞が関駅で、日比谷線に乗り換えている。
なぜか車内はがらがらに空いていて、ふっととなりをみたら、長島先生が坐っておられた。
一言「こんなところにいていいのか!」
「こんなところ」がどこを指しているのかは、夢の中だけにすぐにわかった。
そこだけにとどまるな、という意味だったと、夢の中で感じていた。
強烈だった、ハッとして目が覚め、たしかにそうだ、と思った。
だから、この1年は「とどまらず」、である。
見知らぬ方からのフォローがあったら、ここに書こうと決めていましたので、
お知らせしておきます。今年から「つぶやき」しています。
いちおう毎日つぶやいています。
といっても、このブログと同じように、帰宅後につぶやいていますので、
一言ブログみたいな感じになりつつあります。
the GULDA MOZART tapes のI集とII集、あわせて5枚をこの二日で聴いていた。
少し大きめの音量で、この時季に聴いていて確信したのは、グルダのモーツァルトが鳴っていると、
部屋が暖かく感じられるようになる、ということ。
エアコンをつけていても部屋は暖かくなるが、それとは種類の違う温かさで、
陽当りのいい部屋にいると、陽射しによって直接からだがあたたまっていくのと、
あきらかに同じ感じのものということ。
そんな聴き方をしているのか、と怒られそうだが、スピーカーに背をむけて、
グルダのモーツァルトを背中に浴びていると、つよく実感できる。
グルダのモーツァルトには「光がある」と。
月曜日の忘年会で話題になったことで知ったのだが、資生堂のCMをおさめたDVDが発売されている。
テレビなしの生活のほうが、「あり」の生活よりも長くなってしまっているから、この手の情報には、疎い。
サントリーのCMものが最初に出て、好評だったこともあり、資生堂版が出たとのこと。
Vol.1とVol.2が出ている。
収録CMのなかに、見たいものはなかった。
INOUI(インウイ)のCMである。「美術館からブラウンが盗まれました」と最後に出てくる。
このCMを制作された方が誰なのかは知らない。
それでも、音楽好きな方であることは伝わってくる。
YouTubeで見ることができる。
ここで流れているのは、カスリーン・フェリアーの歌である。
昨夜は忘年会だった。
私を含めて10人集まり、7時から4時間、みんな話しっぱなしだった。
参加してくださったのは、イルンゴ・オーディオの楠本さん、「幻聴日記」の町田さん、
「管球+αに魅せられた者ども」の小栗さん、数学を教えられているKさん、
川崎先生と13年、デザインの仕事をされてきたプロダクトデザイナーの坂野さん。
ひとりは女性の方で、年齢的には、下は(おそらく)30代なかばから、上は50代後半の幅があっても、
DOLONさん、Tさん、坂野さんは、初参加だったけれど、
話題が途切れるなんてことはなく、オーディオ機器の固有名詞はほとんど出ることもなく、盛り上がっていた。
オーディオには、「聴く」楽しみがある。「いじる」楽しみもある。「選ぶ」楽しみ、そしてそれを「買う」楽しみ、
「待つ」楽しみもあるだろう。
所有するオーディオに関係する楽しみ以外にも、「妄想」する楽しみがあって、「読む」楽しみがあり、
昨夜の「語る」楽しみがある。
一対一で、会って話したり電話で話すことは、今年は、とくに多かったが、
何人もの人と「語る」ことは、昨夜を含めて3回だった。少なかったと感じている。
来年は、もうすこし増やしていこう。
底面開放型に関することで、関心するのはもうひとつあって、
それはエンクロージュア下部のカーテンの存在である。
底面開放型もしくは底面にバスレフポートがあるスピーカーでは、
とうぜんここから高域成分がもれてくるわけだが、
ベイシーのスピーカーのようにカーテン状のものがあると、
うまいぐあいに高域成分は吸音されていることだろう。
底面開放型であることを隠すためのカーテン状のものを下げられたのかもしれないが、
結果的には、音の面でもうまいやり方だと思う。
底面開放型を採用する場合、カーテンのアイディアもいっしょに使いたい。
もちろん見映えをどう処理するかは考えなくてはならないけれども。
アルテック604-8G用のエンクロージュアで、底面開放型か、底面にスリットをいれてみるかもしれない。
ベイシーの開店当初から底面開放型だったのか、それとも最初は密閉型だったのかははっきりしないが、
エンクロージュアの底が抜けていることを教えてくれた人は、
低音の鳴りに応じて、エンクロージュアの下部にカーテンのように垂れ下がっている布がはためているのに気づき、
スピーカーのところまで行き、布の奥に腕を入れたところ、底板がないことに気がついたそうだ。
底面開放型だということをきいて、いいアイディアだと思った。
エンクロージュアを構成する面の、どれかをなくすので広く知られているのは後面開放型だが、
底面開放型はセッティングの自由度の高さで、より使いやすいのではなかろうか。
後面開放型では、音場感の再現に好適な位置が、低音再生に好適とは限らないし、
低音がうまく鳴ってくれる位置では、音場感の拡がり、奥行の再現が十全でなかったりする。
もちろんうまくいくポイントがあるかもしれないが、たいていはどちらかをすこし犠牲にするか、
ほどほどの妥協点を見つけることになる。
その点、底面開放型では、低音の鳴り方は床との間隔を調整が重要になってくるはず。
「スーパートゥイーターに関して」を書いたときに、
スピーカーのエンクロージュアの天板の鳴りの変化についてふれた。
スーパートゥイーターではなく、自然素材の吸音材(フェルトやウールなど)を乗せた音を聴くと、
天板の鳴りをできるだけ抑えてみたい、とも思うようになる。
石や金属といった、重量のある硬いものを乗せるという手もあるが、
天板の対向面である底板とのあいだで定在波が発生しているわけで、
これをなくせれば、天板の鳴りはずいぶん減るであろう。すっきりした鳴りになるのではなかろうか。
定在波は平行面があるから発生するわけで、
底板がなければ、エンクロージュア内部で垂直方向の定在波は発生しないだろうし、
そこまでしなくとも底板に空気穴、バスレフポートをもうけるのは、どうだろうか。
今年登場したスピーカーでは、リンデマンのSwing、
インターナショナルオーディオショウでA&Mのブースにあったジャン平賀氏設計のスピーカーは、
どちらもエンクロージュア底面にスリットがある。
さらに一関ベイシーのスピーカーも、実は底面開放型エンクロージュアである。
「のだめカンタービレ」の音楽の表現のほうが、直感的に伝わってくるものがあり、
それはある種普遍的な要素が多いようにも思う。
それに「のだめカンタービレ」での音楽のコマは、ほとんどが演奏シーンでもある。
「ルードウィヒ・B」での音楽の表現は、音楽そのものを直接表現することと関係していて、
手塚治虫の主観によって画となる。
だから、その主観を読み解く難しさと面白さが、「ルードウィヒ・B」にはあるともいえる。
「のだめカンタービレ」では、1コマで表現されることはない。
いくつかのコマ、数ページにわたって、表現は構成されている。
「ルードウィヒ・B」ではときに1コマで、音楽という連続している作品、
時間軸とともにある作品を表現しているのは、
手塚作品におけるモブシーンと通底しているものが感じられるとともに、
手塚治虫の、マンガという手法の限界に挑んでいた迫力が、あるといってもいいだろう。
手塚治虫が健康で長生きされていれば、1コマのもつ迫力は増し、磨かれていったはずだ。
「のだめカンタービレ」は最終回を迎え、単行本も23巻が出ている。
8年間続いた連載が終ったわけだが、すでに番外「オペラ篇」がはじまっている。
「ルードウィヒ・B」の続きを読むことはできないが、「のだめカンタービレ」は、まだまだつづいていく。
こんどは、言葉という具象的なものが、その音楽シーンに加わる。
それを二ノ宮知子がどう処理・表現していくのかも、ストーリーとともに大きな楽しみになっている。
「のだめカンタービレ」では、音楽そのものを直接画で表現しようとはしていない、といってもいいだろう。
手塚治虫の「ルードウィヒ・B」での表現手法とは大きく異るのは、
作者の二ノ宮知子が女性であることと関係しているのかもしれないし、
性差は関係なく、世代の違いもあろうし、音楽の聴き方、というよりも捉え方の違いから生じたのかもしれない。
「のだめカンタービレ」での音楽シーンでは、必ずといってよいほど聴衆がそこにいて、
彼らの表情によって、そこに響いている音楽がどのように聴き手を捉えているのかが表現される。
「ルードウィヒ・B」に登場した平均率クラヴィーアのコマ(画)は、「のだめカンタービレ」には登場しない。
手塚治虫の作品には、ときどき、それまで見たことのない画が突如として現れる。
「ルードウィヒ・B」にも、現れている。
「のだめカンタービレ」には、現れない。
だが、どちらが音楽を、音のない画から伝えるか、という点では、二ノ宮知子の手法のほうが、
作品が長く続き、手法が洗練されてきたこともあって、完成度は高い。
音楽が、じーんと伝わってくる。
手塚治虫の作品を、ある量読んだことのある方ならば、
手塚作品の特長のひとつとして、モブシーンがわりと使われていることに気がつかれているだろうし、
その素晴らしさ、面白さにも気づかれていると思う。
それまでコマ割りという時間軸によって流れてきていたストーリーが、
大きなコマ、ときに2ページ見開きを使ったモブシーンによって、時間軸をとめてしまう。
そのモブシーンは、じつに丁寧に描かれているし、手塚治虫自身が、嬉々として描いているようにも感じられる。
時間軸はとまるが、物語全体を俯瞰するときもあり、手塚作品のモブシーンは、さっと読み飛ばすわけにはいかない。
このモブシーンが、「ルードウィヒ・B」における音楽そのものの表現手法へと変化している、と思っている。
「のだめカンタービレ」の主人公の野田恵は、実在のピアニストで言うならば、
誰に近いのだろうか、とは、読んだ方ならば、いちどは思うだろう。
どんな音を、ピアノから抽き出すか、も空想してしまう。
そんな空想をもっと楽しませてくれそうなピアノが、
ベーゼンドルファーから7月7日に発表された "Audi Design Grand" である。
名称が示すように、自動車メーカーのアウディによるベーゼンドルファーのスペシャルモデルである。
ベーゼンドルファーのサイトに行くと、"Designed Models" というページがある。
アウディのを含め、12モデルについて、アクセスできるようになっている。
そのなかでも、"Audi Design Grand" は、とびぬけて素晴らしい。
なぜアウディなのか、といえば、アウディの地元インゴルシュタットで、
2001年から開催されているジャズコンサートを行なっている縁からだそうだ。
すでに270回ものコンサートが行なわれ、参加したジャズ・ピアニストの多くが、
ベーゼンドルファーのピアノを好んで演奏したからだそうだ。
どうもジャズのためにつくられたスペシャルモデルのようなのだが、
こんな素敵なピアノを、ジャズ・ピアニストだけに独占させるなんて、もったいない。
写真を見てもらえればわかるが、低音弦側の脚は、面で構成されている。
ここも響板になっているとみるべきだろう。
高音弦側の脚は、対照的な素材と印象を与える、金属によるフレームからなる。
モダーンという表現が、ここまでしっくりくるピアノは、これがはじめてであろう。
このピアノを見ていると、私の中の妄想アクセラレーターが、自動的にonになる。
この "Audi Designed Grand" をのだめが弾いたら......、と想ってしまう。
Audiのサイトにも、このピアノのページが設けられていて、
プレスキット(約40MB)がダウンロードできる。
その資料に、詳細が書かれているし、写真も数多く添付されている。
このピアノで録音されたディスクは、いつ出てくるのだろうか。
未完で終ってしまった「ルードウィヒ・B」だが、同じくクラシック音楽をテーマとした、
現在進行中の「のだめカンタービレ」が、いよいよ次号で最終回を迎えるようだ。
今日発売の「Kiss」最新号掲載の同作品の最終ページに「次号、グランドフィナーレ」の文字があった。
「Kiss」は月2回発行(10日と25日)だが、「のだめカンタービレ」の掲載は、基本的に月1回。
掲載誌で読み、単行本でまた読んできた。
なにか素晴らしい決着で終りそうな予感にみちた今回の話も、
読んでいて「じーん」とくる、ふたりの演奏シーンがある。
「ルードウィヒ・B」と「のだめカンタービレ」は、時代設定も、主人公が作曲家とピアニストかという違いがある。
それだけでなく、違いは、手塚治虫と「のだめカンタービレ」の作者、二ノ宮知子では、
音楽の表現手法にもある。
2008年9月3日の19時7分に、最初の記事を書いているから、今日から2年目に入った。
毎日書いていても、達成感みたいなものは感じられないけれど、
今日はちょっとだけ、達成感らしきものを感じている。
以前書いたように、早瀬さんとだけでなく、傅さんとも、今年はよく電話で話している。
なのに直接会って話す。かならずしも、そこで出てくる話は新しいことばかりではない。
電話で話したことをくり返す。何度かくり返し話すことがある。
時間の無駄と思う人もいてもいいが、私は、くり返し口から自然と出てくる言葉は、
なにかわけがあって、くり返すことですこしずつはっきりとくっきりと、
輪郭が描かれていくようにも感じている。
くり返しといえば、昨夜の話の中でも「ルーティンワーク」という言葉が出た。
いい意味で使われたわけではない。
けれど、ルーティンワークがそういうふうに受けとられがちなのは、
日常生活の中でくり返すことで、安易に馴れてしまい、悪い意味で要領よくなってしまい、
いつのまにか楽をしたいがために手抜きができるところは、いつのまにか、
ときには無意識のうちにそうしてしまうおそれがある。
「細部に神は宿る」と、よく言われるように、ルーティンワークにおいて決して手を抜くことなく、
細部に、隅々にまで神経を行きとどくようにしていれば、ルーティンワークは必ず何かを生み出していくはずだ。
17日は、傅さん、早瀬さん、友人のAさんとKさんの五人で集まって、食事をしながら、あれこれ話していた。
終電ぎりぎりまでそんなことをやっていたので、帰宅したのは、もう18日に、とっくになっていた。
だから、ひとつ前のブログは、日付こそ、17日になっているけど、実は、これを書く、ほんのすこし前に書いたところ。
早瀬さんは、この集まりのためだけに、わざわざ京都から来られた。
早瀬さんとは、よく電話で話している。
16日も、かなりの時間話していたし、日曜日も長電話だった。
まぁ、とにかくよく話している。それでも、こうやって顔を合わせて、
しかも傅さん、Aさん、Kさんが加わると、よく話すことがあるなと思うくらい、
なんだかんだと話していた。
電話は便利だし、メールはさらに気楽という面も加わり、ついつい使ってしまう。
人と会うためには、移動の時間も必要になる。これを億劫と思う人がいるのも理解できなくはない。
メールで済むのに、電話で済むのに、と思ってしまったら、
その人とのコミュニケーションは、わずかずつではあるが、確実に希薄になっていくだろう。
自分の時間を大切にするということは、心の贅沢なのかもしれない。
けれど言いたい、人のために時間を割くことこそ、心の贅沢だと。
本日、"the Review (in the past)" というブログを公開しました。
ブログ形式で公開していますが、暫定的なもので、途中でブログから他の形式に変更するかもしれません。
アクセスしていただければ、すぐわかるように、
audio sharingでの公開の許諾をいただいている筆者の方々の、製品紹介、テストリポートの文章を、
各ブランド、各機種ごとにまとめています。
型番の表記ですが、本文中は、基本的に全角文字のままにしてあります。
元の文章が全角文字で書かれているのはそのままにしていますので、検索にはご注意くださ
い。
タイトル中の型番は、すべて半角文字で表記しています。
A50からはじまったアキュフェーズのA級パワーアンプは、A50Vに改良され、
その次に出力が50Wから60Wにアップされ、型番はA60になった。
今年、出力は60WのままだがA60の改良モデルとして、A60VではなくA65として登場した。
A50に末尾にVがついたときから思っていたことがある。
このアンプの出力が、できればA級で75Wになってくれたら、型番はA75だろう。
そして改良モデルが出たら、そのときの型番はA80ではなく
(これだったらスチューダーのオープンリールデッキと同じになってしまうから)、
A75Vにしてほしい、そんな音とはまったく関係ないことを、実は思っていたのだ。
A75Vという型番を見て、あるパワーアンプを思い出す人が、どれだけいるだろうか。
1970年代のおわりに、エレクトロリサーチというアメリカのブランドから、A75V1という、
型番が示すとおり75Wの出力、それもA級のステレオ仕様のパワーアンプがあった。
設計者は、ジョン・アイバーソン(John Iverson)だった。
A75がオリジナルモデルで、その改良モデルがA75V1だったと記憶している。
ステレオサウンドの新製品紹介で取りあげられているのが印象的で、ずっと記憶に残っている。
フロントパネルには温度計がついていた。業務用機器を思わせるところがある。
やや武骨ながら精悍な感じで、井上先生と山中先生の音の印象も、読んでいると、そうとうにいい感じに思えて、
当時、ぜひ聴いてみたいパワーアンプのひとつだったにもかかわらず、
結局、実物をいちども見ることはなかった。
山中先生に、どんなアンプだったのか訊いたことがある。
「なかなかいいアンプだったよ」と答えが返ってきた。
そんなことをきくと、よけいに聴きたくなるが、頭の中で思い描くしかない。
いまのペースでいくと、あと3年後だろうか、アキュフェーズのアンプの出力が75Wか70Wになり、
その改良モデルとして、型番がA75かA75Vになるのは。
型番が似てきたからといって、それが何? と言われれば、返す言葉はないけれど、
それでもなってくれたらなぁ、と思ってしまう。
トラックバックについてですが、昨日までは可能にしていましたが、
昨日から異常にスパムのトラックバックが増えましたので(300通を超える数)、
それにいままでどなたもトラックバックを利用されていないこともありましたので、
トラックバックを外しました。
トラックバックに関しては承認制にしていましたので、スパムは公開されることなく、
まとめて簡単に削除できるんですが、そのままにしておこうとも思いましたが、
なんとなく気分に的にイヤな感じでしたので、外させていただきました。
今後、トラックバックを希望される方がおられましたら、メールにてご連絡いただければ、元に戻します。
コメントに関しては、承認制ではなく、書き込まれた時点で公開されるようになっています。
ただスパムコメントに対して、ソフトウェアが自動的に判断するように設定しています。
もし、コメントを書き込んだものに公開されない、ということがありましたら、
メールにてお知らせください。
左側サイドバーの「検索」で、オーディオ機器の型番を検索される際には、
アルファベット、数字とも、半角文字での入力をお願いいたします。
半角と全角とでは、別の文字として検索しますので、ほとんど型番に関してはヒットしません。
型番は原則として半角文字で書いています。
また-(ハイフン)は省略しています。
たとえばマークレビンソンのLNP2は正しくはLNP-2と、Pと2の間にハイフンがはいりますが、
すべて省略して書いています。
ただし930-900のように、数字と数字のあいだ、
アルファベットとアルファベットのあいだのハイフンは書いています。
写真、図、グラフなどを表示すれば、わかりやすくなりますし、
書き手の私にとっても楽になることは、編集経験からわかっていますが、
あえて文字だけでこれからも続けていきます。
音楽を感じるのは心(heart)なのは、art(芸術)が含まれているから。
モーツァルト(Mozart)にも、artが含まれている。
始まり(start)は、artから。
地球(earth)の中心には、artがある。
eとhのあいだにartがある。
eとhのあいだは、アルファベット順だと、fg(FG) 。
fg = art。
FGといえば、Fridrich Gulda(フリードリヒ・グルダ)。
だからグルダの音楽は素晴らしい、とは言わないけれども、
ここ数年、グルダのCDを、頻繁に聴くようになった。
バッハの平均率クラヴィーア曲集も、以前は、グールドを聴く機会がもっとも多かったのが、
いまではグルダのディスクに手が伸びることが多くなってきた。
1993年のモンペリエのライヴ録音も、大好きなCDだし、
the GULDA MOZART tapes もひどい録音状態だけど、もう何度聴いたことだろうか。
グルダの音楽は、いい。
オーディオに、最先端の現場はあるのだろうか。
しばらく、ぼんやりと考えている。
医療の最先端の現場、科学の最先端の現場......、
そういった現場は、本やテレビ、映画などから得た情報、知識で、門外漢のものでも、
ボンヤリとではあるにしても、まあ想像できる(どの程度当たっているかは別としても)。
なのにオーディオの最先端の現場はというと、少なくともパッとは浮かんでこない。
最先端の現場にいる人──
最新の情報を伝える人は、最先端にいる人ではない。わかりきったことだ。
インターネット上に最先端の「場」はつくれるかもしれない。
でも、そこは最先端の「現場」にはならない。
サウンドボーイ編集長だったOさんには、いくつもの、とっておきの店を教えてもらった。
そのひとつが、人形町にあった和菓子屋の「三はし堂」だ。
とにかく、だまされたと思って、いまの季節、店頭に並んでいるさくら餅を、ぜひ味わってほしいと思う。
ピンクの半透明の皮のほうがこしあん、白で、やはり半透明のほうがつぶあん。
餡の好みもあろうが、ぜひふたつとも食べてもらいたい。
さくらの葉がついたまま食べるのも好き好きだろうが、
私は葉の香りがのっこているうちにいただく。
三はし堂は、実はいちどなくなっている。店じまいした。
理由はいくつかあったようだ。
料亭に和菓子を卸していたのが、バブル経済の破綻で、料亭の店じまいが相次いだためとも聞いているし、
地上げのせいだとも聞いてる。
元の場所には、巨大なオフィスビルが聳え立っている。
1997年ごろになくなった。
ちょうど、このころ人形町に出向き、三はし堂に向かったのに、
ラーメン店(それもチェーン店)に変わっていた。
「もう、あのさくら餅が食べられないのか......」と、喪失感が襲ってきた。
さくら餅ごときで、大袈裟な、と大半のひとは思われるだろうが、
一度でも、三はし堂のさくら餅を口にしたことのある人ならば、
このときの私の気持ちを、きっと理解してくるはずだ。
その年の暮れ、あれだけの店がなくなるのは、和菓子の世界だけでなく、
日本文化の損失であり、きっと同じように思っている人がいるはず。
その人たちの中には、三はし堂を支援してくれる人がきっといるはず。
復活するんじゃないか、と、なぜだか確信して、電話を掛けてみた。
つながらないはずの電話がつながった。
「ありがとうございます、三はし堂です」という声が聞こえてきた。
復活していたのだ。
新しい店の場所を聞き、すぐに向かった。
元の場所からすこし離れた、現在の、清洲橋の袂に移動していた。
製餡所の一角に間借りする形での営業再開だった。
つい最近再開したばかり、とのことだった。
話を聞いてわかったのは、三はし堂の餡は、自家製ではなく、
ここの製餡所のもので、いくつかの有名和菓子屋にも同じ餡を卸しているが、
不思議なことに、和菓子になったとき、三はし堂のがいちばん美味しい。
餡の味が美味しくなる。だから、この店をつぶしたままにしておくわけにはいかない。
自分のところの餡の宣伝にもなるということもあり、支援を決めたと言うことだった。
伊藤先生も、ここのさくら餅をたいへん気にいられていた、ときいている。
「ルードウィヒ・B」は手塚治虫氏の未完となった3作品のひとつであり、
タイトルから想像できるとおり、ベートーヴェンを主人公とした作品である。
紙からは音は出てこない。そんな平面の世界──制約だけの世界──で、
一瞬たりとも立ち止まることのない音楽を、どう表現するのか。
手塚治虫の答えが、「ルードウィヒ・B」には、いくつか提示されている。
バッハの平均率クラヴィーアを描いた1コマは、圧巻と言うしかないだろう。
物語がどういう展開になるのかは、もう誰にもわからない。
「ルードウィヒ・B」はおそらく、まだ全体の4分の1くらいのところだったのではないか、
そんな気がしてならない。
ハ短調交響曲を、手塚治虫はどう描き切るのか、
「第九」は......、後期のピアノ・ソナタは......、そのなかでも作品111は、どうなっていっただろうか。
回を追うごとに、手塚氏の表現力は増していっただろう。
私の想像が追いつくことはこないだろう。
それでも、想像をめぐらすしか、他にない。
「ネオ・ファウスト」も「グリンゴ」も続きが読みたかった。
「ルードウィヒ・B」は読みたいだけでなく、せめて1コマでいいから見たかった作品である。
カンターテ・ドミノのCDのことで補足しておく。
赤色と黒色、2つのレーベルが存在していたのは、そんなに長い期間ではないはずだ。
最初に発売されたCDではなく、あくまで1987年、88年ごろの輸入CDについてである。
知人がやはり同じ時期に購入したのは赤色レーベル(正相盤)だった。
逆相盤は、ほんの一時期、市場に出廻ったものなのだろう。
同じディスクを複数枚購入するとわかることがある。
グレン・グールドのゴールドベルグ変奏曲の輸入CDも、最初の頃は日本プレスだったが、
途中からアメリカ・プレスに変わっている。
ケイト・ブッシュのCDも、最初のドイツ・プレスだったのが、イギリス・プレス、
それも最初はニンバスによるプレスに変り、EMIのプレスと、少なくとも3回変わっている。
プレス工場が違えば音も変ってくるのは当然だが、国内盤で、同じディスクを3枚買って聴きくらべてみると、
プレスの微妙な差があるのか、3枚とも、わずかとはいえ音が違う。
3枚も購入したのは、当時、ステレオサウンドの試聴でもよく使われていた
インバル指揮のマーラーの交響曲第4番の金蒸着CDだ。
私が3枚とも購入したわけではなく、頼まれた分も含めてで、
こういう機会はあまりないからと、試しで3枚とも聴いてみたわけだ。
このころ、CDを乗せたトレイを一度引っ込めて、また出して、ディスクには手をふれずに、
もう一度トレイを戻して再生すると、ディスクのセンタリングがきちんと出ているか出ていないか、
そのせいでサーボ量が変化するのだろうか、少なくない音の変化のするCDプレーヤーが少なくなかった。
うまくセンタリングがピシッと決ると一回目で、いい音が出るが、
たいてい2回目の方が好ましい結果が得られることが多かった。
こういったことをふまえた上での比較試聴でも、やはり3枚のディスクに差はあった。
やや平面的になるものがあった。
アナログディスクのころ、同一スタンパーからプレスされたディスクでも、
つまり同じロットのディスクでも最初の方でプレスされたものと、最後の方のプレスとでは、
音が違うと言われていた。
だから音にこだわるレコード会社はスタンパー1枚あたりのプレス数を制限していたときいている。
CDもそれと同じような理由かもしれないし、まったく違う理由によって音が変ってくるのかもしれない。
「GROUNDING AND SHIELDING TECHNIQUES IN INSTRUMENTATION」と
「NOISE REDUCTION TECHNIQUES IN ELECTRONIC SYSTEMS」。
一冊目の著者は Ralph Morrison、二冊目は Henry W. Ott。
タイトルが示すとおり、ノイズ対策として有効なアースとシールドについて書かれた本だ。
私が持っているのは「GROUNDING」のほうが1986年の第3版、
「NOISE」のほうが1988年の第2版。
この本を紹介していたのは、富田嘉和氏。ラジオ技術の記事で知った。
富田氏の名前をはじめて見たのは、
ステレオサウンドの38号「オーディオ評論家──そのサウンドとサウンドロジィ」での、
瀬川先生のページにおいてである。
マークレビンソンのLNP2の上にシルバーパネルの、自作アンプが置いてある。
このアンプの製作者が富田氏だ。
聴取位置左側の壁には、JBLのSG520が2台、マランツの#7が収められている。
LNP2と富田氏のプリアンプは、聴取位置のすぐ前、手の届くところに置かれている。
これはSG520、#7よりもLNP2と富田氏のアンプを常用されていたわけだ。
この時から富田氏への興味ははじまった。
その富田氏が、80年代おわりから90年代はじめにかけてラジオ技術で書かれた記事は、
いま読んでも示唆に富んでいると思っている。
記事中で推薦されていたのが、上記の2冊である。
記事を読んで、日本橋の丸善に注文を出し手に入れた。どちらも1万円前後の本だった。
アースやシールドについて知りたければ、そして語りたければ、一読しておきたい内容の本だ。
さきほどAmazon.comで検索してみたら、驚いた。
「GROUNDING」は第4版になっていたが、見間違いかと思う値段がついているのだ。
20数年前ステレオサウンドが、メトロポリタンオペラのポスターを販売していたことがある。
そのなかの一枚に、メトロポリタン劇場の透視図があった。
ステージがあって、客席があり、それを取り囲むように、舞台装置を組立てている部屋、
衣装部屋、出演スタッフの待機部屋などが描かれたもので、
じっくりと細かいところまで見ていく楽しみのあるポスターだった。
このポスターを見ながら、これそのままモデル(立体)化してくれたらいいのに、そんなことを思っていた。
それから数年後、Macを使いはじめてからは、
あのポスターを3D化したらおもしろいだろうな、と思うようになってきた。
当時流行った言葉でいえば、メトロポリタン劇場をヴァーチャルツアーしたいからである。
はじめて使ったMacはClassic IIだから、3Dソフトに必要なコプロセッサーを搭載してなかったし、
モノクロ2値の9インチのディスプレイで、モデリングをやる気はまったく起きなかったので、
あくまで頭の中だけで思っていただけだった。
3Dソフトもハードウェアも進歩して、人物も自然風景の描写も、以前と較べると、その労力は少なくてすむ。
ハードウェアのスペックも、個人で楽しむ分には十分だと思う。
となると妄想だけは膨らむ。
オペラの演出家になれるわけだ。
ワーグナーの「ニーベルングの指環」の舞台こそ、挑戦しがいのあるものの筆頭だろう。
神話の世界を、現実の舞台のではあり得ない演出、照明でつくり出せる。
10年くらい前から、そんなことを考えてはいるものの、まったく手をつけていない。
2年前になるが、ある個人サイトに五味先生の言葉が引用されていて、
サイトの主宰者の意見が綴られていたのだが、
五味先生の言葉が言わんとするところと、主宰者の主張はどう読んでも喰い違う。
でもご本人は、五味先生の言葉を同意見として引用されている。
引用されていた五味先生の言葉の前後を、著書を読んで確認しても、やはり納得できない。
そこで主宰者の方にメールを出した。
返ってきたメールには、「私は行間を読んでいる」と書いてあった。
そのサイトで公開されている主宰者のプロフィールをみると、まだ20代の方だ。
40代の私が何度読んでも読み取ることが出来なかったことを、
その方は行間から読み取られたことになる。
皮肉で言っているのではない。
なにも私の読み方が絶対だと言っているのでもない。
以前書いたように、いまでも五味先生の著書は、1年に1冊、どれかをくり返し読んでいる。
ディスクにおさめられている音楽は、オーディオ機器の変化や音の変化によって、
以前は聴きとり難かった音も明瞭に聴こえてくるのに対して、
本の活字は若いころに読んだときも40代の今、読んでも、なんら変化はない。
活字の祖も野茂が変化することは、当り前だがありえない。
オーディオ的に言えば、本から得られる情報量は同じだが、
こちらの感じかたは、若いころと同じところもあれば、大きく異るところもある。
それでも、私には行間を読んでいる、感じとれるようになったという意識は、実のところない。
いかにも、世の中は、行間を読むことが、
書いてある文字を読むことより高尚なことみたいに思われがちのようだし、
そう言われているように私は感じている。
だが、少なくとも優れた書き手の文章を読む上で、もっとも優先すべきことは、
そこに書かれている文字をしっかり読むことであろう。
納得いくまでくり返し読むことであり、それにはある種の辛抱強さを求められる。
あえて言う、行間には何も書いてない。
グレン・グールドが、終生愛用した、父親製作の折畳み式の椅子。
2年前、そのレプリカが、フランスで作られ、現在購入できる。
990ユーロ+送料で、世界中に配送してくれる。
1991年だったか、カナダ大使館で開催された「グレン・グールド1988」展。
グールドが亡くなった翌年(1983年)に、カナダ国立図書館に寄贈された遺品は、
25万点以上あり、その整理に時間がかかり、カナダで最初に開かれたのが1988年。
日本での公開は3年後で、約200点が展示されていた。
平日とはいえ、会場はガラガラだった。
日本でのグールドの人気を考えると、信じられないくらいの人の少なさ。
椅子も展示されていた。
グールドの晩年、椅子の状態は相当にボロボロの状態だったと話はきいていたが、
実物は想像以上にひどかった。
「こんなのに座っていたの?」というぐらいに。
その椅子のレプリカ──。
グールドがその椅子に座り、ピアノ(音楽)と向き合ったように、
この椅子に坐ったからといって、グールド的リスナーになれるわけでもないけれど、
グールドの演奏を聴くときには、この椅子で、と思う。
テレビを持っていないので、DVDを観る時は、すこし古めのパソコンを使っている。
そのせいもあるのだろうが、信号面は、見た目キレイなのに、
どうしても読み込めないディスクが、たまにある。
CDでも同じことを体験している。
やはりすこし古めのCDプレーヤーだと、TOCを読めなかったり、かなり時間がかかるものがある。
そんなときディスクをクリーニングすると、何の問題もなく読み込む。
もっとも、そういうCD、DVDも、新しいプレーヤーだと、別にクリーニングしなくても大丈夫。
CDが登場したときに、ディスク表面には、プレス時の離型剤が完全に取り除かれているわけでなく、
わずかに残っていて、それがピックアップに影響をおよぼすと言われていた。
各社からクリーナーが登場し、なかには超音波クリーナーもあった。
5年ほど前、J-WAVEの番組で、オーストラリアの博士が、
CDにビールをかけると音が良くなる、と電話インタビューで話していたのを聞いたこともある。
数年前に購入したクラシックのCDに、
接着剤のカスのようなものが、がんこに付着していたことが2度続けてあった。
意外と汚れているのかもしれない、と最近思っている。
ディスクではないが、コンデンサーや抵抗、トランジスターなどの電子パーツのリード線も、
意外に汚れているものがある。汚れの有無で、ハンダのノリが違ってくる。
フルトヴェングラーの「音楽ノート」の所収の「カレンダーより」の1932年に、
ラジオの聴衆が音楽会から受けとる、あの栄養素のない、ひからびて生気のぬけた煎じ出しを
心底から音楽会の完全な代用物とみなすことができるのは、
もはや生の音楽会が何であるかを知らない人たちだけである。
と書いている。
フルトヴェングラーはレコードを信用していなかったことは有名な話である。
だから、この記述に驚きはしないが、この1932年9月25日にグレン・グールドは生を受けている。
単なる偶然、そう、たぶんそのとおりだろう。
けれど、ごっちゃにしすぎと言われそうだが、
菅野沖彦、長島達夫、山中敬三の三氏の誕生月も、1932年の9月である。
レコードの可能性、オーディオの可能性を信じてきた人たちが、ここに集中しているのは、
ほんとうに偶然なのだろうか。
ソニーの平面型スピーカー、APMシリーズは、
Accurate Pistonic Motionの頭文字をとっている。
コーン型振動板の分割振動を嫌い、
できるだけ正確なピストニックモーションを実現するための平面振動板の採用だったわけだ。
LINNの代表モデル、LP12は、
ご想像の通り、LPをかけるプレーヤーで、その直径が12インチだからである。
CDプレーヤーのCD12の「12」は、CDの直径が12cmだから。
47研究所の「47」は、主宰者の木村準二さんの名前からとられている。
木村→き・むら→黄・紫で、抵抗のカラーコードで、黄色と紫は4と7を示すからである。
愛聴盤と言う、長年聴き続けてきて、そしてこれから先もずっと聴き続けていくなろうディスク、
なにか大事なときには必ず聴きたくなるディスクのことだが、
愛聴盤というニュアンスではなくて、ある短期間(数カ月だったり1年だったり)、
ことあるごとにかけるディスクもある。
それこそ毎日鳴らすこともあるし、一日のうちに二度三度聴くこともある。
そういうディスクのことをなんと呼んだらいいのか、
と以前、黒田先生がステレオサウンドに書かれていた。
たしかに愛聴盤とは呼べない。限られた期間とはいえ頻繁に聴くディスクにぴったりの呼称がない。
少し前の週刊文春に連載されている近田春氏の「考えるヒット」の欄外に、
ヘビーローテーション盤という言葉を見つけた。
愛聴盤と比較するとカタカナがすこし長いし、酷使されている感じもするが、
いまのところ,これがイチバンぴったりの言葉だろう。
いうまでもないが、ヘビーローテーション盤と愛聴盤は違う。
ヘビーローテーション盤を、愛聴盤と混同してはならない。
マッキントッシュのパワーアンプの型番の意味するところは、
モノーラル機かステレオ機か、と、出力の大きさである。
真空管アンプのころ、MC275、MC240のモノーラル仕様のMC75、MC40が存在からわかるように、
MCの後につづく数字の最初が「2」であればステレオ仕様であり、そのあとの数字が出力を示す。
「2」がない場合はモノーラルで、MCの後すぐの数字が出力である。
これはトランジスター化されても基本的には続いている。
過去の製品を含めると同じ出力のアンプも存在すると、
型番の末尾に出力とは関係のない数字がつくこともあったし、
出力250W+250Wだが、MC252という型番も出てきた。
モノーラルで「2」がつくのは、超弩級のMC2kWである。
これは出力が2000Wなので、このように例外的な型番となったのだろう。
とはいえ「2」のあとに数字ではなくkWと続くので、それほど例外とも言えない。
あと真空管アンプのMC3500は、350Wのモノーラル仕様なのに、「0」がひとつ多かったりする。
だから原則的にマッキントッシュのパワーアンプの型番のつけ方に大きな変化はないと思っていた。
けれど、MC2301は違った。
型番から判断すると、300W+300Wのステレオ仕様なのに実際は300Wのモノーラルである。
メーターがひとつだから、モノーラルということは実物、写真を見ればすぐにわかることとはいえ、
なぜ、このアンプだけ型番のつけ方が異るのか、ちょっと気になる。
ラックスのLX38の前身は、SQ38FD/IIで、その前はSQ38FD、SQ38F、SQ38D、SQ38と遡る。
SQ38の「38」は、初代モデルが発売された年、昭和38年からきている。
2代目の型番末尾のDは、deluxe の頭文字である。
つまり初代SQ38の改良モデルは、SQ38 Deluxeというわけだ。
SQ38Dは昭和39年発売で、出力は10W×2で、当時の価格で58,500円している。
つぎの改良モデルは、昭和43年に登場したSQ38F。
Fはfinal の頭文字。このとき出力管が、NECが開発した50CA10に変わり、出力も30W×2となり、
SQ38FD/IIの原型といえる仕様となっている。
これで最後からと思ったら、昭和45年にまた改良モデル。またDがついている。
SQ38FDは、SQ38Final Deluxeの略だ。さらにその改良モデルということで、IIをつけている。
型番のアルファベットや数字には、わりと意味のあるものが多い。
マークレビンソンのLNP2は、Low Noise Pre-Amplifierの略であり、
あまり知られていないが、LNP1というモデルもある。
ML2、ML3のMLは、Mark Levinsonの頭文字だし、JC1、JC2はJohn Curlの頭文字だ。
HQDシステムは、使用スピーカーのブランドの頭文字、H(Hartley)Q(QUAD)D(Decca)である。
マークレビンソンから出ていた高品質レコード、UHQRは、Ultra High Quality Recordの略。
その他思いついたものから書いていくが、
ヤマハのスピーカーの型番の頭につくNSは、Natural Soundの略。
同じヤマハのパワーアンプのB-I、B-2のBは、Basic Amplifierからきている。
1987年10月19日、ジャクリーヌ・デュプレは亡くなっている。
デュプレが亡くなって、数年後に、音楽評論家の三浦淳史氏の文章で、
イギリスで「Jacqueline du Pré」という薔薇が生れたということを知った。
残念なことに写真はなかった。
1997年にインターネットに接続したときに、検索した言葉のひとつが「Jacqueline du Pré」だった。
ネットならば、Jacqueline du Pré がどういう花なのかがわかるはずという期待からだったが、
まったくヒットせず。
1年後くらいか、やっとイギリスの個人サイトで、写真を見ることができた。
小さな、不鮮明な写真だった。
英文の説明には、入手が非常に難しい、と書かれていた。
栽培が難しいらしい。
日本で見ることは無理だなと思いながらも、数年に一回、ふと思い出しては検索してみると、
日本の薔薇の愛好家のサイトでも見ることができるようになっていた。
薔薇の世界の技術も進歩しているらしい。
Jacqueline du Pré は、
イギリスの薔薇交配家のピーター・ハークネス氏の育てた品種の中から
多発性硬化症で入院していた彼女の視力はかなり衰えていたので、
嗅覚だけで、彼女自身が力強い香りのものを選んだときいている。
1989年、Jacqueline du Pré が世に出ている。
デュプレの命日が近い。日本での入手はそう難しくない。
ちょっとしたブームの感もあったスーパートゥイーターの増設。
低域のレンジ拡大に比べると、手軽な印象のある高域のレンジ拡大だが、
スーパートゥイーターの導入で、すこし書きたいことがある。
スピーカー・エンクロージュアの天板は、音にかなり影響する。
大半のスピーカーでは、天板の面積は、他のフロントバッフルや側面にくらべて小さい。
ためしに何でもいいので、天板の上に乗せてみて聴いてみてほしい。
低域のレンジ拡大に比べると、手軽な印象のある高域のレンジ拡大だが、
スーパートゥイーターの導入で、すこし書きたいことがある。
スピーカー・エンクロージュアの天板は、音にかなり影響する。
大半のスピーカーでは、天板の面積は、他のフロントバッフルや側面にくらべて小さい。
しかも聴取位置から、背の高いスピーカーだと死角になっているにもかかわらず、
天板の鳴りをちょっと変えると、すぐさま音の変化としてあらわれる。
ためしに何でもいいので、天板の上に乗せてみて聴いてみてほしい。
もちろんそのとき、左右のスピーカーの天板に置くものは同一で、
同じ場所に置いてください。
やわらかいもの、硬いもの、重いもの、軽いもの、
やわらかいもの、硬いもの、重いもの、軽いもの、
それらをどこに置くかで天板の鳴り(振動モード)が変化する。
スーパートゥイーターを導入される方の多くは、
スーパートゥイーターを導入される方の多くは、
メインスピーカーの天板に置かれるだろう。
このとき、スーパートゥイーターを接続せずに、
このとき、スーパートゥイーターを接続せずに、
天板に上に置き、置いた音と置く前の音をしっかり確認してほしい。
それからスーパートゥイーターの位置をあれこれ変えてみる。
その音の違いに驚かれる人もいるだろう。
それらの確認をした上でスーパートゥイーターを接続してほしい。
スーパートゥイーターを天板に置くことで、
それからスーパートゥイーターの位置をあれこれ変えてみる。
その音の違いに驚かれる人もいるだろう。
それらの確認をした上でスーパートゥイーターを接続してほしい。
スーパートゥイーターを天板に置くことで、
天板の鳴りを変化させていることに気づいてほしいから、である。
それから、スーパートゥイーターの磁気回路から出ている漏洩磁束が、
メインスピーカーのスピーカーユニットの磁気回路に影響を与えてもいる。
もちろん、反対にメインスヒーカーのユニットの漏洩磁束が、
スーパートゥイーターにも影響している。
些細なことだが、オーディオ雑誌やネットの記事を読んでいて気になっていることが、すこしある。
まずは、デジタルドメインからSITを使ったパワーアンプ、B-1aのこと。
まずは、デジタルドメインからSITを使ったパワーアンプ、B-1aのこと。
オーディオ雑誌の紹介記事のなかには、必ずヤマハのパワーアンプのことが書かれている。
ヤマハのB-1と表記されている。
ヤマハのB-1と表記されている。
でも正しい表記は、B-Iである。コントロールアップはC-I。
姉妹モデルとして出たのが、C-2、B-2だったため、
姉妹モデルとして出たのが、C-2、B-2だったため、
C-1、B-1と勘違いしてもしかたないと思うが、当時のカタログや広告で確認してみてほしい。
C-I、B-Iとローマ数字になっているのを。
もうひとつは、チョークコイルのこと。チョークと書いても通じるのに、
C-I、B-Iとローマ数字になっているのを。
もうひとつは、チョークコイルのこと。チョークと書いても通じるのに、
わざわざチョークトランスと表記される人がいる。
いったいいつからチョークコイルがトランスに化けたのだろうか。
