ジャーナリズムの最近のブログ記事

ただ、同時に、多少の反省が、そこにはあると思う。というのは「ステレオサウンド」をとおして、メーカーの製品作りの姿勢にわれわれなりの提示を行なってきたし、それをメーカー側が受け入れたということはいえるでしょう。ただし、それをあまり過大に考えてはいけないようにも想うんですよ。それほど直接的な影響は及ぼしていないのではないのか。
 それからもうひとつ、新製品をはじめとするオーディオの最新情報が、創刊号当時にくらべて、一般のオーディオファンのごく身近に氾濫していて、だれもがかんたんに入手できる時代になったということも、これからのオーディオ・ジャーナリズムのありかたを考えるうえで、忘れてはならないと思うんです。
(中略)そういう状況になっているから、もちろんこれからは「ステレオサウンド」だけの問題ではなくて、オーディオ・ジャーナリズム全体の問題ですけれども、これからの試聴テスト、それから新製品紹介といったものは、より詳細な、より深い内容のものにしないと、読者つまりユーザーから、ソッポを向かれることになりかねないと思うんですよ。その意味で、今後の「ステレオサウンド」のテストは、いままでの実績にとどまらず、ますます内容を濃くしていってほしい、そう思います。
オーディオ界は、ここ数年、予想ほどの伸長をみせていません。そのことを、いま業界は深刻に受け止めているわけだけれど、オーディオ・ジャーナリズムの世界にも、そろそろ同じような傾向がみられるのではないかという気がするんです。それだけに、ユーザーにもういちど「ステレオサウンド」を熱っぽく読んでもらうためには、これを機に、われわれを含めて、関係者は考えてみる必要があるのではないでしょうか。
     *
瀬川先生が、ステレオサウンド 50号の特集記事
「ステレオサウンド誌50号の歩みからオーディオの世界をふりかえる」のなかで、語られている言葉だ。

50号は、1979年3月に出ている。
オーディオ誌の企画書といえるメモを書かれて、2年後の発言である。
試聴リファレンス
Speaker  ○4343──────(メイン)
       ○BC-II/KEF 104AB(イギリスの新しいモニター系のSP)
       ○ARDEN、ALTEC 19、(やや旧タイプのフロアー型)

Amp       ○LNP-2L/SAE 2500(or 510M)

Cartridge   ○MC-20/JC-1AC、VMS-20E、SPU-GT/E、455E、4000D/III、4500Q、V15/III、EPC-100C
没個性な量産品に対するユーザーの反動、に対して
A.キットをふくめて自作、改造の記事をどう扱うか。

B.使いこなしで、いかに自分を表現するか!
 a.リスニングルーム探訪のような形で、個性的なユーザーを探す。
 b.使いこなしのちょっとしたヒントを常設記事にする。
 c.改造や自作というほど大げさでなく、既製品にほんの少し何かを加えて個性化するヒント等......。

読みもの をどう扱うか
A.随筆風の......(わりあいまじめな)
B. 具体的な製品や具体的な風潮などを例示しての論壇風の......
C.リラックスした......(やや冗談ふう、やぶにらみ風、etc.)
D.読者との意見交換、発表。(新人を発掘する場にできれば)
E.オーディオ関係者(メーカー、販売店 等)の意見......

入門記事、解説記事
◎オーディオが一般化するにつれて、ほんとうのちょっとした基礎のところのわからない人が大半を占めるようになっている。
◎見開き完結の読切連載のような形にするか......
◎常設とせず、随時、ページ数もその時に応じて、にするか......
◎オーディオをハード的に扱わず、音楽愛好家の側から、メカや電気に全く弱い人にでも理解できるような解説が必要。

製品以外の話題、ニュース、情報
 催し(メーカーのショールーム)、ディスカウントセール、録音会等......
 地方での催しでも、中央のメーカーの後援又は主催であれば紹介できる(講師、内容、日時、問合せ先)
新製品紹介を2本立てで考える。
その1は、本誌選定の形で十分にスペースをとり、解説/分析/使用感の3部からなる詳細なレポートとする。一製品あたり6〜10ページ又はそれ以上、毎月2ないし3点を扱う。(既刊のあらゆる専門誌が、スペースをせまく考えすぎる。充分な時間をかけた分析、試聴と、その結果の中味の凄い紹介、読み終って嘆能するような)
その2は、記事のニュース的な扱いで、その月の製品(アクセサリーまで含めて)すべてを網羅する。

上の2つのいずれも、その製品の位置づけを明確にするために、ライバル製品との対比(グラフ、一覧表などで整理する)、及びそのメーカーの系列の中での地位、その他の事から、十分にその意味あいを明らかにする。

選定 新製品紹介の方法
①解説、紹介/メーカーの開発意図も(受け売りでなく、スタッフが十分に消化した形で)紹介する。製品そのものを、それをみたことのない人にも十分に想像のつく程度に簡潔に具体的に解説すると共に、その製品の出現した必然性、選定した意味を明確にする。技術的な(例えば回路方式などの)解説は最小限を、細心の注意をもって扱い、電気や音響、物理、科学の基礎のない愛好家にも、よくわかるようにする。

発売時期(全国)を明記する。

②分析、測定/ありきたりの測定でなく、実用にもとづいたデーターをとる。メーカーの盲点をつく測定を常に考える。ただし、例えばアンプの出力等、量的に明確でしかも変?項目については、メーカーの発表値に偏りがないかどうかをえならずチェックする(グラフとして発表しない場合でも)。
測定データーは、その製品が製造中止になるまで保管し、ヒットした製品については、適当な時期に追跡測定をして、初期ロット品との比較を随時掲載する。
シャシー構造、エンクロージュア等、その構造、構成が性能に影響のある部分については十分に分析し、評価を加える。

③使ってみて(又は聴いてみて)/ヒアリングテスト、及びデザインや操作性、ことに実際のユーザーの部屋で、何らかの不つごうを生じないかどうか、をよく検討する。
ヒアリングテストには、組合せをいくつか変える。ライバル機(別項カコミで一覧表)との比較、位置づけ、CPを考慮した場合しない場合、等 多角的な検討を忘れぬこと。
●具体的な使いこなしについて十分にスペースをさく(ユーザー側から熱心な要望がある)
●組合せについてのヒントも加える(ユーザー側から熱心な要望がある)
●音を聴いたことのない人にも、音が聴こえるような表現に心がける

④以上の3点を、できるだけ簡潔に、しかし充分に分析の加えられた表現になるよう意を盡すこと。
○なお、冒頭に、メーカー紹介(簡潔に、メーカーの来歴と体質、オーディオ界での地位等)(カコミでも可)
○また、「(例えば)今月の用語」として、その製品で話題になった技術用語、専門用語を簡明に解説するカコミを設ける。
○文体は簡明、即物的、ベタベタした感情を入れず、客観的であるかのような印象を与えることを心がける。指摘すべき弱点を素直に指摘し、良い点は十分に(しかし表現を抑えて)ほめる。
○アサヒカメラ診断室のように、複数のテスターの意見を編集部がまとめる形(?)
   ↓
ただし、それよりも内容の豊かで簡明な

⑤上記②の測定について
○たとえばアンプの場合、いままで測定されなかったトーンコントロールの各ポジションでのf特を入れたい。
○TC、EQのf特について、その偏差やうねりを見せるだけでなく、添い身について(CP等考慮しながら)十分な解説を加える。

○③の試聴について
 ●リファレンスの製品との比較(価格を無視した評価尺度として)、国による音の傾向を掴む(例JBL、BC-II......)
 ●ライバル製品との比較(CP、その時点時点でのレヴェルを考えて)
 ●平均音量レヴェルを3〜4段階の等級に分けて試聴(パワー、耐入力等の性格を分析する手段)
 ●聴きどころの基準を最初は明確にしておき、必ず同じ基準での評価を書く。

新製品紹介 B欄
ニュース性/網羅すること/製品の性格・位置づけを重視した簡明な解説/情報の早さ、正確さ(A欄からの性格上、製品が市販された後でとりあげることが往々にしてありうるのに対して、B欄はとにかく情報を早く流すことを生命とする)
内容とはべつに
A.目次を見やすく。(表紙2の次に必ず置く)

B.広告に対する考えを新たにして、広告も情報記事のひとつと考え、インフォメーション欄として、一括し(記事中に分散させず)黙示中に作品をとりこむ等。できれば本誌向きの広告のパターン,スタイルをスポンサー側に一考してもらう。あくまでも、広告をまま子扱いするのではなく、逆に、積極的にユーザーの目にふれやすい情報欄として扱うのが本意(たとえばこの欄に独立のトビラをつける等)であると共に、本文記事のレイアウトも含めて簡明な印象を与えるような配慮。(スポンサーの大半がこの点を誤解しているが、多くの読者の意見を聞いてみれば、むしろ広告欄を一括して集めてある方が、積極的に歓迎される)

C.上のことも含め、月刊誌であっても、SS本誌同様、いつまでも保存しておきたくなるような、上品で美しい本にしなくてはならない。

D.音楽、レコード欄をどう扱うか
オーディオ誌であることに徹するなら、レコードは新譜一覧表の形だけ扱う(但し表の作り方に工夫を加え、もっと見やすいものにする。現在各誌の表組みはひどく見にくく、実用的でない)
但し例えば「朝日新聞」の試聴室や「暮しの手帖」のレコード欄のように、毎月のテーマをきめて、新譜であると否とにこだわらず、評論家の選んだレコードを楽しく紹介する欄は欲しい(例「今月はモーツァルトの室内楽を聴いてみよう」、「今月はジャズ・バラードの素敵なムードを味ってみよう」......式に)

E.オーディオ記事の扱い方全般に、かつての熱っぽい雰囲気の凍えらせて、冷たくつき放したような印象が支配していることを、多くの読者が強い不満をもって指摘している。この点はライター、エディターともに猛反省をしなくてはならない最重要点。
活き活きとした澄んだやさしい目で、しかも熱烈に愛情をこめてオーディオに対するという姿勢を、永続させること。少なくとも、そういう感じが、毎号の誌面にヴァイタリティを持って表現されること。その姿勢をバックボーンにしたときに(結果的に、例えば)新製品A欄での、おさえた表現が輝くような。 
◎多くの項目を満載するよりも、最小限の記事の一点一点に、十分のスペースと時間をさいて、総ページは少なくとも重量感(読みごたえ)のある本をつくるべきではないか。

◎すべての点で、既刊の専門誌の裏をかくような料理のしかた。簡明でありながら堪能させる味わいの凄さ。

◎毎月、洪水のように生れる製品、アクセサリー類、レコードのすべてを(ほとんど一覧表に近い形で整理しておいて、その中からある主張をもってセレクトしたものについて、十二分の機材と解説を加えて紹介する、という形。

◎つき放した評価ではなく、オーディオファン、音楽ファンが、その製品、そのレコードにのめり込んだ軌跡を、あとからクールにリポートしたというような形。

◎評価、批評したり紹介したりするライターも、それを扱う雑誌社も、製品やレコードの扱いにあまりにも小利巧になりすぎて、一般ユーザーの本当に期待している対象へののめり込みが全くなくなってしまった点が、こんにちのオーディオ、レコード専門誌の弱み。

◎しかし対象にのめり込んだ姿勢が、そのまま評価に出たのでは、ベタついた、客観的評価を欠くかの印象の、あるいはメーカー等からつけ込まれる記事になりやすい。のめり込むというのはあくまでもライターやエディターのバックボーンであって、その表現は、現代流にあくまでも緻密に、クールに、簡潔かつ直截的に......であることが重要。

◎昨今のオーディオライターが、多忙にかまけて、本当の使命である「書く」ことの重要性を忘れかけている。談話筆記、討論、座談会は、その必然性のある最小限の範囲にとどめること。原則として、「書く」ことを重視する。「読ませ」そして「考えさせる」本にする。ただし、それが四角四面の、固くるしい、もってまわった難解さ、であってはならず、常に簡潔であること。ひとつの主張、姿勢を簡潔に読者に伝え、説得する真のオピニオンリーダーであること。

◎しかしライターもまた、読者、ユーザーと共に喜び、悩み、考えるナマ身の人間であること。小利巧な傍観者に堕落しないこと。冷悧かつ熱烈なアジティターであること。

◎気取りのなさ。本ものの大衆料理の味。
◎目次を必ず表2の次につける。

◎広告ページを「情報ページ(又はインフォメーションセンター など......)」と呼び、分散させず1ヶ所に集中。索引は目次中に載せる。

◎新製品の扱いを2本立てにする。
A.今月活躍の製品(S−J選定に相当するような、本誌スタッフが選定した製品)について十分にページをとる。
 a.解説(解説)──ライバル機種との対比、又、そのメーカーの製品系列の中での位置づけを十分に解説。製品についても、技術的解説よりもその意味合いに重点。メーカーの意図も紹介。
 b.テストリポート(分析)──おもに測定及びコンストラクション、デザイン等からの公正な評価。ライバル製品、及びそのメーカーの中での位置づけ。
 c.音質評価(使ってみて)──CPを考慮した場合、しない場合、ライバル機種との、そのメーカーの中での、使いこなしについて十分に解説。組合せ然り。音楽への向き不向き。

ページ数は最低6、ないしは12。
多角的に、その製品の性格を十分に浮彫りにする。

B.新製品紹介欄
 いわゆるニュース的扱い、ただし、その記述は、簡明、直裁を心がける。
 ライバル機種との比較表など考慮

◎製品以外の情報欄
 催し、メーカー主催又は後援の地方での催し

◎内外の話題

◎論説、随筆、etc. 読みもの

◎読者との交流をどうするか。訪問(個人、グループ)
 読者の夢をきく。

◎販売店──
スケッチ」のところで書いたように、瀬川先生が書かれたメモとスケッチが、いま手もとにある。

そのひとつ、オーディオ誌の企画書の下書きといえるメモを公開していく。

はしり書きであること、瀬川先生の書かれた文字を見るのははじめてなので、
何箇所か読み取れないところもあるが、極力、書かれたとおりのまま入力している。

おそらく1977年に書かれたメモであるが、そのままこの時代にあてはまることが書かれている。
「いま、そしてこれから語るべきこと」のなかで、川崎先生のことば「機能性、性能性、効能性」をかりて、
オーディオの効能性についてすこしばかり書いた。

この「機能性、性能性、効能性」は、オーディオそのものについてもあてはまるし、
個々のオーディオ機器について語る時にも「機能性、性能性、効能性」をどこかで意識していく必要があるだろう。

新製品紹介の記事は、どのオーディオ雑誌にもある。
そこでもっぱら語られるのは、音について、である。

読者がもっとも知りたいことも、新製品のスピーカーなりアンプが、
どういう音を聴かせてくれるのかに興味があることだろうし、
そこに重点がおかれるのも理解できないわけではない。

それでも、「音のよさ」とは、いわゆるそのオーディオ機器の「性能性」の部分でしかないともいえる。

性能性は、物理特性のことのみではない。音のよさも、ここには含まれるとすべきである。
オーディオの「現場」として、意見を率直に語り合う討論の場が、なぜ設けられないのか。

オーディオ雑誌の企画として、
オーディオ評論家(なかには、そう呼ばれているだけのひともいるが)が集まっての座談会ではなく、
メーカーの開発者、営業の人たち、輸入代理店の人たち、オーディオ販売店の人たち、
そしてユーザーの人たち、をも含めての討論の場の必要性を感じはじめている人はいるはずだ。
おそらく杉井氏は、604-8Gと604-8Hのネットワークを混同されていたのだろう。
勘違いの発言だったのだろう。

604-8Hはマンタレーホーンを採用している関係上、ある帯域での周波数補正が必要となる。
それに2ウェイにも関わらず、3ウェイ同様に中域のレベルコントロールも可能としたネットワークであるため、
構成は複雑になり、使用部品も増えている。

だから、杉井氏の発言は、604-8Hのネットワークのことだろう。
勘違いを批判したいわけではない。

この記事の問題は、その勘違いに誰も気がつかず、活字となって、事実であるかのように語られていることである。

この試聴記事に参加されている篠田氏は、エレクトリでアルテックの担当だった人だ。
アルテックについて、詳しいひとのはずだ。
604-8Gと604-8Hのネットワークについて、何も知らないというのはないはずだ。

本来なら、篠田氏は、杉井氏の勘違いを指摘する立場にあるべきだろうに、
むしろ「アルテックの〝あがき〟みたいなものがこの音に出ている」と、肯定ぎみの発言をされている。

首を傾げたくなる。

そして編集部は何をしていたんだろう。
誰も気がつかないというのは、専門誌の編集者としては失格ではないだろうか。
いまや、オーディオ評論よりもオーディオ概論ばかりになりつつある。
しかも、こんな当て字をしたくなる──、オーディオ骸論......。
リーダーとヒーローについて考える。

ヒーローとは、「希望」をあたえてくれる人のことだ。
昨年の9月3日から書きはじめた、このブログも、ひとつ前の記事が1000本目。
気持の上では、1クールが終って、この記事から2クールがはじまるといったところ。

ブログをはじめた理由は、ひとつだけ言いたいことがあったからで、それが最初の記事「言いたいこと」だ。

この1本だけを書きたいがために始めて、この1本だけでは誰も見にこないだろうから、
この1本をできるだけ多くの人によんでもらいたいから、
ブログの性質上、できるだけ毎日1本、なにかを書き続けるのが、多くの人の目にとまるだから、
できるだけ毎日書くようにしよう、というぐらいの心構えだった。

それから日記的な内容は、できるだけ書かないようには決めていた。
これに関連することとしては、どんなシステムを使って、なにを調整して、今日は何を聴いた、
といったことがらも極力書かないようにしている。

他の人はともかくとして、すくなくとも編集経験ありの私が、
自分の生活をネタにしなければ書き続けることができない、というのでは恥ずかしいことであり、
己の無能さをさらけ出すものだと考えているからだ。

書くことに無能であれば、書かなければいいのだから。私はそう考える人間だ。

これまでの1000本は、すこし遠慮して書いてきたところもある。
これからの1000本は、「言いたいこと」をはっきりと書いていく。
「小悪魔 ageha」という、
当ブログをお読みの方のほとんどはご存じないだろうが、
いま売行きを伸ばしている、勢いのある雑誌がある。

編集長は、中條氏という30代の女性。
ある雑誌のインタビューによると、週の大半は、夜の歌舞伎町をひとりで歩きまわっている、とのこと。

編集者が、一日会社の中にだけいては「会社の人」になってしまうから、と、
「小悪魔 ageha」にとっての現場である歌舞伎町の空気を感じとるためらしい。

では、オーディオにおける「現場」とは、どこなのだろうか。

すぐに明快な答を返せる人がいるだろうか。
自分で問いかけながら、私も即答はできない。考えているところだ。

それでもいえることは、「現場」を無視しては、語れないということだ。
数年前から、ごく親しい人との会話のなかで口にしていたのだが、
「オーディオ・ジャーナリズムが確立される前に、オーディオ・ブームが訪れたのが、オーディオ界の不幸」であり、
あと5年ほどブームが遅かったら、「いまの状況はずいぶん違っていたものになっていたはず」と思っている。

つまりオーディオ・ジャーナリズムは確立されていない、と考えている。

瀬川先生の思想メモを読むと、同じ想いだったように感じる。
だから、書かれたのだ。私はそう思う。
スケッチの項でふれた、瀬川先生のメモは、オーディオ誌の企画書といえるもので、
それも月刊誌を想定したものである。

本のコンセプトだけではなく、1冊のオーディオ誌として、全体と細部について、
かなり具体的に書かれているところもある。

私も、以前、同じようなものを、2回、書いたことがある。
こういうオーディオ誌をつくりたいという想いから書いたもので、誰かに見せることはなかった。
それにもう手元にもない。

だからというわけでもないが、瀬川先生が、これを書かれたときの心境が、
私なりではあるが、わかる(気がする)。

なぜ、書かれたのか──。

それまでのオーディオ誌に、つまりステレオサウンドにも、必ずしも満足されていなかった、
と読んでいるとそう思えてくる。
仲間内だけで、ステレオサウンドについてあれこれしゃべっていても、
それでは、いつまでもたっても伝わらない。

手紙なり電話をするなり、手段はいろいろある。
良くなってほしいと思っているのなら、伝えてなくてはならない。

いまのステレオサウンドがおもしろいと思っている人たちも、もちろんいる。
そういう人たちは、いまのままでいいから、と黙っていると、時代が変化するにともない、
本のあり方も変っていかざるを得ない。
そんなとき、自分の声を伝えていなければ、望まない方向に変っていくかもしれない。
変ってしまったあとに、あれこれいっても、なかなか元には戻らないものである。

だから、いまのステレオサウンドのあり方に賛同する人はする人で、
きちんと編集部に声を届けるべきだろう。
「ステレオサウンドを読んでいてもつまらない」、「毎号買ってはいるけど、ほとんど読んでない」という声を、
この1年の間に、よく聞くようになった。

だからといって、そう言っている人たちがオーディオに対する情熱を失いかけているのではなく、
むしろステレオサウンドとは関係なく、オーディオに対して真剣に取りくまれている。

ならば、ステレオサウンドを買うのはやめたら、という声も聞こえてきそうだが、
オーディオを長くつづけてきた人たちならば、
すくなからず、ステレオサウンドへの思い入れは、いまでももっているはずだ。
だから、文句をいいながらでも毎号手にするという人も少なくないだろう。
文句といういう名の要望を口にしているのだ。

私だって、ステレオサウンドへの思い入れは、人一倍持っているつもりだ。

思い入れは持っていながら、不満を感じている人たちは、ステレオサウンドに対して、
なんらかの方法で、意思表示をすべきである。

私のように、川崎先生の連載がないから買わない、というのも意思表示のひとつであるし、
ステレオサウンド編集部に対して、どう思っているのか、これからどうなってほしいのか、
きちんと伝えるべきであろう。
ステレオサウンドは、もう購入していない。川崎先生の連載「アナログとデジタルの狭間で」が、
わずか5回でなくなってしまったからだ。

川崎先生が、ふたたびステレオサウンドに書かれることは、もうないだろう。
だから、ステレオサウンドを買うことも、もう二度とない。

ステレオサウンドは、だから書店に手にとってパラッとめくるぐらいと、
あとは友人宅に遊びに行ったとき、そこにあれば、読むくらい。
それでも、ステレオサウンドを毎号買って読んでいる友人たちと、
ステレオサウンドについて話しても、特に困らないし、会話はきちんと成立する。

さすがに、今号の「海苔」だけはまったく気がつかなかった......。

購読をやめたのは、川崎先生の連載がなくなったことに対する、私の意思表示である。
たとえば早瀬さんは、どうしても言いたいことがあって、編集部に電話してきたことがきっかけである。
25年前のことだ。
私は、編集部に、こんな企画をやってほしいという手紙を、
何通も送っていたのがきっかけで、28年前のことだ。

早瀬さんは、それで「ベストオーディオファイル訪問」に登場することになり、
井上先生の使いこなしの記事に、読者代表として、原本薫子さんとともに誌面に登場された。

私はというと、「面白いヤツがいる」ということで、編集部から、ある日、「遊びに来ませんか」という電話をもらい、
ほいほい出かけていったら、「働かない?」と誘われたわけだ。

早瀬さんも私も、ステレオサウンド編集部に、言いたいことがあった。
それを黙っていることができず、電話なり手紙で伝えたことで、ステレオサウンドと関わりをもつことになり、
早瀬さんと私も知り合うことになる。来年の6月で、知り合って25年になる。

私たちは、いわば意思表示をした。
手塚治虫自身のルーツをさぐる作品のタイトルである「陽だまりの樹」は、
徳川幕府のことを比喩する言葉でもある。

「陽だまりの樹」は、陽だまりという、恵まれた環境でぬくぬくと大きく茂っていくうちに、
幹は白蟻によって蝕まれ、堂々とした見た目とは対照的に、中は、すでにぼろぼろの木のことである。
「寄らば大樹の陰」を、人の生き方は人それぞれだから、否定はしない。
ただ、その大樹が、「陽だまりの樹」ではないと、誰かが保証してくれるのか、
「陽だまりの樹」ではないと、誰がわかるのか。
「我々のあいだには、チームプレイなどという都合のよい言い訳は存在しない。
あるとすれば、スタンドプレイから生じるチームワークだけだ」

荒巻大輔の言葉だ。

荒巻大輔とは何者? と思われた方もいるだろう。
インターネットで検索してみると、すぐに出てくるので、ここでは書かない。

この言葉をきいたのは、ずいぶん前だし、そのときも感心したおぼえがある。
それを、いまごろ、ふと思い出したわけだ。

チームプレイとチームワークは似ているようでいて、違うものだ。

それに、結局のところ、スタンドプレイ(単独行動)のみしかないのかもしれない。

ならばチームワークを生むスタンドプレイと、生まないスタンドプレイの違いは、どこにあるのか。

「思いやり」が、そこにあるかないのか違いだと断言する。
「思いやり」のないスタンドプレイには、チームワークは存在し得ない。
そうはっきりと言える。
以前はどうだったのだろうか。
想像するしかないが、やはりステレオサウンドにおいて、五味先生の存在は精神的な支柱だったと思う。
それに、一昨日、黒田先生の「憧れが響く」を入力していて考えていたのは、「目的地」についてである。

プライベートにおいて、出されている音の「目的地」はひとりひとり違っていても、
オーディオ評論家として「目的地」は、直接、言葉に出されていないくても、
おそらく共通したものがあったようにも思えてならない。

だから、編集者が黒子でいても(いたからこそ)、うまく機能していったのだろう。

けれど、状況は大きく変化している。
だから、チームプレイが必要なのかもしれないと考えたわけだ。

だがそれも、精神的なリーダー不在ではうまく機能するとは、とうてい思えない。

では、どうすればいいのか。
ひとつ、思い出した言葉がある。
ステレオサウンドが創刊された当時は、人に恵まれていた。
五味康祐、岡 俊雄、岩崎千明、井上卓也、長島達夫、山中敬三、菅野沖彦、
瀬川冬樹、黒田恭一、上杉佳郎(生年順)......。

いまも活躍されているのは菅野先生ひとりになってしまった。
上杉先生も健在だが、オーディオ評論家としての活動は控えられているのではないだろうか。

あからさまに書いてしまえば、いまオーディオ誌に執筆されている方たちと、上記の方たちとでは、
力量も、経験量も違う、というしかない。

だからといってそれを嘆いていても仕方のないことで、「人がいない」というのは言い訳にすらならない。

ひとりひとりの力が劣るのであれば、協力し合うことで、対処すればいいだけのはなしで、
1対1で勝てなければ、1対複数で向えばいい──、そんなふうに考えていた。

チームプレイがうまく機能するには、監督もしくはリーダーが必要だ、とも......。

こんなことを数ヵ月前までは考えていたし、このことを数人の方に話したこともあった。
先週発売になったMACPOWERに掲載されている川崎先生の「ラディカリズム 喜怒哀楽」のなかに、
『「予知」と「勘」』という言葉が、ある。

川崎和男の「予知」と「勘」とは、
エリック・ホッファーの「未来を予測する唯一の方法は、未来をつくる力を持つことである」──、
この言葉そのものであり、川崎先生には、その力があるからこそ、と思っている。

「未来をつくる力」こそ、本来、ジャーナリズムの核なのではなかろうか。

エリック・ホッファーは、こうも言っている。
「真の預言者とは未来を見通す人ではなく、現在を読み解き、その本性を明らかにする人である」と。
文章を書いている最中にも、こまかい判断を、いくつもしている。
文章を書こうというときには、もうすこし大きい判断をしている、といえようか。

それらの判断がすべて正しいわけでもないだろうが、判断なくしては書けない。

書き手がつねに心がけておくべきことは、小さなものであれ大きなものであれ、
判断は、つねに読み手に向ってなされるべきであること。

どちらを向いて、その判断を下したのか。

読み手に向っての判断であれば、その人が、私とまるっきり正反対の判断をされたとしても、
それは尊重するし、異は唱えない......。
ステレオサウンド 38号で、黒田先生が、岩崎先生のリスニングルームを訪ねられたあと、
岩崎先生宛の手紙という形で、感想を書かれている。

タイトルは、アレグロ・コン・ブリオ。

そこに書かれている。
「大きな音で、しかも親しい方と一緒にきくことが多いといわれるのをきいて、岩崎さんのさびしがりやとしての横顔を見たように思いました。しかし、さびしがりやというと、どうしてもジメジメしがちですが、そうはならずに、人恋しさをさわやかに表明しているところが、岩崎さんのすてきなところです。きかせていただいた音に、そういう岩崎さんが、感じられました。さあ、ぼくと一緒に音楽をきこうよ──と、岩崎さんがならしてくださった音は、よびかけているように、きこえました。むろんそれは、さびしがりやの音といっただけでは不充分な、さびしさや人恋しさを知らん顔して背負った、大変に男らしい音と、ぼくには思えました。」

さびしさや人恋しさを知らん顔して背負った、大変に男らしい音──、
ここにも孤独があり、孤独を、岩崎先生は、ある意味、楽しまれていたのでは、と思えてくる。

そう思うのは、私のひとりよがりなのかもしれないが、
それでも、私の中では、一条の光とアレグロ・コン・ブリオ(輝きをもって速く)が、結びつく。
いまいちどスミ・ラジ・グラップの言葉を書いておこう。

「人は孤独なものである。一人で生まれ、一人で死んでいく。
その孤独な人間にむかって、僕がここにいる、というもの。それが音楽である。」

いいかえれば、音楽は、「一条の光」である。

一条の光は、オーディオの存在によって、いつでも灯けられる。

真っ白の一条の光のときもあれば、やわらかい、ほのかな色をおびた一条の光も、
つよいまぶしいほどの一条の光も......、
鳴らすレコードによって、オーディオによって、いま鳴っている音によっても、
一条の光は幾重にも変化する、変化してゆくもの。

必要な一条の光も、その時々、その人の諸々の事情により異なるものだ。

だからレコードであり、オーディオなのである。
心の贅沢とは、孤独を楽しむことだ、と思う。

もちろんこれだけではないだろうし、いまはこう思っていても、
数年後ぐらいにはまったく違うことを思って書くかもしれない。

それでも、いまは、こう思っている。
贅肉にも同じ文字が使われていることからもわかるように、
贅沢という言葉だけでは、どうとでもとれる多面性がある。

物質的な贅沢、精神的な贅沢という表現があるように、文化的な贅沢、文明的な贅沢もあろう。
頭にどんな言葉がつくかによって、なんとなく、どういう贅沢なのかがぼんやりと浮かび上がってこよう。

よく「心の贅沢」という。たしかに贅沢のまえに「心」がついてる。単なる「贅沢」とはちがう。

だが贅沢にいろいろあるように、「心」こそ、さまざまだろう。

満ち足りた心もあれば、空虚な心もあろう。すさんだ心、かよわい心、つよい心、うつくしい心......、
心の前にどんな言葉がつくかによって、「心の贅沢」はまるっきり違う様相となる。

そして、精神的な贅沢、気持の上での贅沢ではなく、「心」の贅沢と言ってしまうことで、
含まれるものは、数を増す。

心の捉え方も、人によって微妙に異るのは当り前のことだ。

おまえはどうなんだ、と問われれば、はっきりとは答えられないが、
ここで書いたことを思っている。

だから、「心の贅沢」と言ってしまった瞬間に、
これを発した人の表現したものから、その人の心を、
受け手、読み手、聴き手は、無意識のうちに感じとっているところがあると思う。
JBLの4341は1974年の登場だから、すでに35年前のスピーカーである。
しかも2年後の76年に4343が登場したため、JBLの、この価格帯のスピーカーとしては異例の短命でもあった。

その4341を、いま鳴らすとしたらどんな組合せがいいか、そんなことを金曜日に早瀬さんと話していた。

すでに製造中止のスピーカーを鳴らすわけだから、アンプも現行製品だけが候補ではない。
4341と同時代の、1975年前後のアンプ、
SAE、GAS、マークレビンソン、スレッショルド、AGI、DBシステムズなどが候補として、すぐにあがってくる。

現行製品だけの組合せを考えるよりも、製造中止になった製品まで対象にすると、
その人なりが、よりはっきりと浮かび上ってくるようにも感じられる。

私だったら、パワーアンプは現行製品にする。

程度のいい、当時のアンプが手に入り、メインテナンスも信頼できるところできちんとやってもらったとしても、
スピーカーを鳴らすことに関しては、現行のすぐれたパワーアンプにしたい。
早瀬さんお気に入りのヘーゲル、クレルもいいたろうし、CHORD、パスもおもしろいだろう。

パワーアンプが決まったら、ペアとなるコントロールアンプを素直に選ぶかというと、
あえてマークレビンソンのLNP2Lをもってきたい(これについては、別項で書くつもり)。

4341とLNP2L、スピーカーとコントロールアンプが同時代の組合せとなる。

そんなことを話しながら思っていたのは、こんなことを話していて楽しいのは、
しかも話が弾んでいくのは、早瀬さんとのあいだに相互理解があるからだということ。

あるレベル以上の相互理解がなかったら、こんな話は、まずしない。

相互理解は、読者と編集者のあいだにもあるもの、求められているもの。

なにも読者とのあいだにあるだけではない。
筆者と編集者のあいだにも、筆者と読者とのあいだにも、
そして広告主と編集者、筆者とのあいだにも、より高い相互理解が求められるし、
ないとしたら、それぞれの関係は成り立たなくなるし、発展も、また、なくなるのではないか。
いま「光を聴く旅」を読み返している。

サブタイトルは、MY CD STORY。傅さんのCDストーリーである。1987年に出ている。

背表紙に、黒田先生の文章が綴られている。
     ※
傅信幸は細い綱を渡った。一方には音楽という渓谷がひろがり、
一方にはオーディオという岩山がせまっていた。
傅信幸の渡った綱の先には、虹色の小さな盤があった。
彼は、コンパクトディスクのきかせてくれる
音楽に耳を傾けつつ、
持って生まれた,まるで子供のような好奇心と実行力で、
西に飛び、東に走った。

コンパクトディスクは
オーディオの最新技術がうみだした製品である。
しかし、傅信幸にとって、
それは、新しく登場した単なる道具ではありえず、
彼が愛してやまない音楽を刻んだ盤であった。
コンパクトディスクを物と考え、
その技術的解説に終始するところでとどまることも、
傅信幸にはできただろう。
しかし、傅信幸は、あまりにも音楽が好きだった。
そのために、彼は、
音楽を収納するコンパクトディスクのむこうに、
その誕生にかかわった人たちのドラマをみようとした。
そして、見事、彼は、細い綱を渡りきって、
その過程を、人懐っこさの感じられる、
達意の文章で綴った。
     ※
20年前に読んだときも、この黒田先生の文章にふかく頷いた。
そして、いま、もっとふかく頷いている。

SACD、DVD、Blu-Ray DVD、HD-DVDなど、直径12cmの光学ディスクが、いまある。
これらは、すべてCDから生まれてきた、といえるだろう。
そのCDは、どうやって、1982年10月1日に生まれてきたのか。

「光を聴く旅」は、出版されたのが早すぎたのかもしれない。
というよりも、絶版になっているのが、惜しい本である。

当時、読んだ人も、手もとにあれば、読み返してみてほしい。
面白さが、きっと増しているはずだ。

そして、「光を聴く旅」には、オーディオ・ジャーナリズムが、はっきりとある。

傅さんから、「光を聴く旅」の公開の許諾をいただいている。
audio sharingで、夏までには、公開したいと考えている。
私だったら、どうするか。
すくなくとも、単なる再掲載本なんかはつくらない。

編集者としてつくるのであれば、たとえ、単なる再掲載本と同じ記事を選択しても、
当時の、その記事を書いた筆者に、ふり返って、そしていま読みなおして、どう思うのか......、
少なくともそういったことは、すぐに思いつく。

さらに他の筆者が、どう感じていたのか、どう読んだのか、どう影響されたのか、も載せる。

そして編集者が、当時の時代背景・風景について触れ、いま、なぜ、これを読むのか、についても書くべきである。

これらの、ちょっとした手間をかけるだけで、本の価値は大きく変わってくる。
長く続いている雑誌ならば、過去の記事から、評判の良かったものを選びまとめなおすことで、
一冊の本が、わりと手軽に出来上がる。

この手法による本づくりを批判したいわけではない。
これは、長く続いてきた雑誌だからできる企画であり、一種のベスト盤みたいなものに近いだろう。

この手の本を手にして、かならず思うことは、ただ選び再掲載しているだけで、
そこに何らかの、選者による解説、解釈を求めたくなる。

ただ以前の記事を、当時のレイアウトそのままで再掲載しても、
当時のオーディオ雑誌を手にしたことのない人には、時代背景がつかめない。

広告なんて必要ないという読者の方もいよう。
けれど、広告も時代とともに変化していき、当時のオーディオの雰囲気を掴むうえで、
すぐれた参考資料になる。

それに筆者の顔ぶれも、いまと昔とでは、ずいぶん違う。
そういういくつもの変化を体験し知っている読者にとっては、
単なる再掲載の本でもそれなりに楽しめよう。

この手の本は昔を懐かしがらせるための企画なのだろうか。
それとも、比較的新しい読者に、彼らが興味・関心をもつ以前のオーディオについて、
そして、その雑誌が築いてきたものについても知ってもらいたいがために出しているだとしたら、
明らかに片手落ちとしか言いようがない。
定期刊行物の編集者ならば、つねに心掛けている(はず)のは、
創刊号から最新号まで愛読してくれている読者もいれば、
途中からの人もいるし、最新号をはじめて手にするという読者がいるということだ。

最新号がはじめてという読者でも、若い人もいれば年輩の方もおられよう。
年齢の違いは、キャリア、レベルの違いにもつながっている(ただし必ずしも、ではない)。

ある特定の趣味を専門とする雑誌で、ある程度の歴史をもつとなると、この兼合いが難しい。

はじめての読者のレベルに合わせてしまっては、読みつづけてくれている読者には物足りなくなるし、
反対のことも言え、このことは私がステレオサウンドにいるときから(それ以前から)の、
他の雑誌編集部にとっても、大きな課題である。

読者の多くがバックナンバーに興味をもってくれるわけではない。
持ってくれた読者のすべてかバックナンバーを実際に手にされるわけではない。
それは非常に少ない割合だ。
それにバックナンバーも、そんなに古いものまでは、簡単には手に入らない。

読者の関心は、つねに新しいものに向きがちだ。

解決策のひとつとして、弟分に当たる雑誌創刊がある。

とはいえ、ひとつの編集部が、兄貴分にあたる雑誌と弟分の雑誌の両方を手がければ、
課題は解決されるが、なかなかそうはいかない。
やはり独立した、ふたつの編集部になってしまう。それぞれのカラーが生じて、
雑誌が抱えてきている課題を解消することとは、そう容易くなり得るものではない。

それに弟分の雑誌にも、同じ課題が生じてくる。

だがそれも、いまでは過去の課題でしかない。
インターネットのこれほどの普及と機能の充実、扱いやすさの向上によって、
本来ならば、とっくに解決していたはずなのに、実際にはまだ課題は生きのびている。
わかりやすさが第一、だと──、そういう文章を、昨今の、オーディオ関係の編集者は求めているのだろうか。

最新の事柄に目や耳を常に向け、得られた情報を整理して、一読して何が書いてあるのか、
ぱっとわかる文章を書くことを、オーディオ関係の書き手には求められているのだろうか。

一読しただけで、くり返し読む必要性のない、そんな「わかりやすい」文章を、
オーディオに関心を寄せている読み手は求めているのだろうか。

わかりやすさは、必ずしも善ではない。
ひとつの文章をくり返し読ませ、考えさせる力は、必要である。

わかりやすさは、無難さへと転びがちである。
転がってしまった文章は、物足りなく、個性の発揮が感じられない。

わかりやすさは、安易な結論(めいたもの)とくっつきたがる。
問いかけのない文章に、答えは存在しない。求めようともしない。
この項の(その1)に書いた井上先生の言葉。

井上先生は何を言われようとされたのか。

傅さんの書かれた最近のもの(CDジャーナル4月号の「素顔のままで」と
ステレオサウンド 170号のジェフ・ロゥランドD.Gの新製品クライテリオンの記事)を読んでいて、
「物語」であると、はっきり確信できた。
筆者と編集者のコミュニケーションとは、
筆者が書きたいことではなく、書くべきことを原稿にさせることも尽きると思う。

筆者の裡にそれを見いだし、提示し、ときに説得して書かせて「かたち」にすること。
そうやって筆者と編集者の間に信頼が構築されていく。

書くべきことを自身で見つけ出している筆者は少ないように感じている。
つまり編集者の存在理由の大半は、ここにあるのではないか。
「古人の跡を求めず、古人の求めたる所を求めよ」
松尾芭蕉の言葉だ。

この精神が、いま忘れかけられているように思えてならない。

五味先生の文章を読む、ということは、私にとって、それは行間からわき上がってくるもの、
香りたってくるものを、あますところなく受けとめる行為とも言える。

そのすべてを受けとめられれば、苦労はない、くり返し読みはしない。
できるかぎり素直に受けとめたいからこそ、くり返し読みつづけることで、
五味先生の鳴らされていた音が、行間にちりばめられたかのように感じられもする。

決して行間を読むという意識は持っていない。深読みもしない。
それは往々にして、己の未熟さゆえに恣意的な読み方になりはしまいか。

もちろん意図的に、そんな読み方をして、ひとりごちるのは個人の自由だ。
「思いやり」とはなんだろうと考える。

「考える」には、まず「考えつく」がある。
でも、これでは、まだまだ十分ではない。

「考え込む」だけでは、足が止まり、前に進めなくなる。

「考え抜く」ことで、目の前にある、高く厚い壁も越えられるだろう。

「思いやり」とは、「思いつく」から「思い込む」、そして「思い抜く」ことなのだろう。

オーディオ誌の記事がすべてが考え抜かれたものであるのが、もちろん理想だし、
実現できたら、ほんとうに素晴らしいことだ。

とは言っても現実は違う。
けれど、掲載されている記事の1本でいい、考え抜かれたものが読めれば、人は本を手にする。

「おまえはどうなんだ」という声が聞こえてくる。

毎日、なにがしかを書くことは、考え抜くために必要な行為なのかもしれない。
1988年5月に、黒田先生のお宅に打ち合わせで伺ったときのこと。雑談中にある話を黒田先生がされた。

「最近の雑誌の編集者のなかには、一度も顔を合わせたことがない人が何人かいる。
最初の原稿依頼が電話で、その次からは電話かファクシミリ。
書いた原稿もファクシミリで送信してほしいと言ってくるか、もしくはバイトの子に取りによこさせる。」

黒田先生は、当時から音楽誌、オーディオ誌意外に一般誌にも原稿を書かれていた。
上の話は、その一般誌のことだった。

20年以上前から、筆者と編集者のつき合いは、大きな出版社から、すでに希薄になりはじめていたのだろう。
いま思えば、われわれはなんだかんだいって、よく筆者のお宅に伺っていたのかもしれない。
それが当り前のことだと思ってもいた。

いまはファクシミリよりも便利なメールがある。
もう、原稿の、直接の受け渡しもなくなっているのだろうか。

筆者と編集者の間には、いまや必要最低限のコミュニケーションだけしか残っていないのだろうか。

だとしたら哀しいことである。
あったもの、なくなったもの」を読んでくれた友人のYさんが、メールをくれた。

Yさんのメールには、
「希望」というキーワードは、広告コミュニケーションの世界では、
一昨年あたりからますます重要視されている、と書いてあった。

Yさんは、「あったもの、なくなったもの」を読んで、時代というものを感じた、と書いてくれた。
私も、Yさんのメールを読んで時代を感じるとともに、
「広告コミュニケーション」という言葉に、目が留まる。

広告の世界ではなく、「コミュニケーション」がそこにはついている。

オーディオの出版の世界も同じだろう。
コミュニケーションがつくかどうかの違いは大きいはず。

2000年に、audio sharingの独自ドメインをとったときに、.netでも.orgでもなく
.comを選んだのは、コミュニケーション (communication) のcomであってほしいという想いからだ。

もちろん.comは company だということはわかっている。
人にはそれぞれ大切にしていることがある。
しかし、それは、赤の他人からすれば、どうでもよい、ちっぽけなことだったりすることもある。
それでも、当の本人には、大切なことに変わりはない。

けれど、ちっぽけなことと受けとめた、まわりの人は知らぬうちに踏みにじることもあるだろう。
その時は気がつかない、時間が経ってから、その人にとってそれが大切なことであったことを知る。
今にして思えば......と後悔するが、遅い。
私だって、そんなことをしてきたし、いまでも気がつかずにしているかもしれない。

「思いやり」とは、踏みにじる、その前に気がつく心でもあると思っている。
1989年の1月20日付けで、ステレオサウンドを辞めた。
実際には有給休暇が1ヵ月近く残っていたので、12月下旬の時点で仕事からは離れているが、
今年で20年経つ。節目といってもいいだろう。

その節目のときに、私にとってももうひとつの大事な節目である、瀬川先生と同じ46歳になるというのは、
これもなにかの縁かもしれない、と勝手に思っている。

いまはまったくオーディオとは無関係の仕事に就いている。
これから先、仕事としてオーディオと関わっていくのかどうかは、まったくわからない。
それでも、編集の仕事とは何か、という問いを、自分に投げかける。

四六時中考えているわけではない。でも、当り前のように考える。
無意味なことを考えるなんて、と思われる人がいてもいい。
考えるしかないから、考える。

編集とは、橋を架けることだと思う。

人と人、人とモノ(オーディオ)、人と音楽、人と社会、人と時代の間に橋を架けることだ。

その橋は一方通行では、意味をなさない。

そして編集に必要なものは何か、とも考える。

「思いやり」である。
この気持ちを失えば、もうジャーナリズムではなく羽織ゴロでしかない。
オーディオ評論について考える時、思い出すのが、井上先生が言われたことだ。

──タンノイの社名は、当時、主力製品だったタンタロム (tantalum) と
鉛合金 (alloy of lead) のふたつを組み合わせた造語である──

たとえば、この一文だけを編集者から渡されて、資料は何もなし、そういう時でも、
きちんと面白いものを書けたのが、岩崎さんだ。
もちろん途中から、タンノイとはまったく関係ない話になっていくだろうけど、
それでも読みごたえのあるものを書くからなぁ、岩崎さんは。

井上先生の、この言葉はよく憶えている。
試聴が終った後の雑談の時に、井上先生の口から出た言葉だった。

井上先生は、つけ加えられた。
「それがオーディオ評論なんだよなぁ」と、ぼそっと言われた。

それから、ずっと心にひっかかっている。

岩崎先生は、「オーディオ評論とはなにか」を、以前ステレオサウンドに書かれている。
そのなかで、柳宗悦氏の言葉を引用されている。

「心は物の裏付けがあってますます確かな心となり、物も心の裏付けがあってますます物たるのであって、
これを厳しく二個に分けて考えるのは、自然だといえぬ。
物の中に心を見ぬのは物を見る眼の衰えを物語るに過ぎない」

ふたつの言葉が浮かぶ。

釈迦の「心はかたちを求め、かたちは心をすすめる」と
川崎先生の言葉の「いのち、きもち、かたち」である。
最初に手にしたステレオサウンドは、1976年の12月に出た、
JBLの4343が表紙の41号で、中学2年の時だった。

この号の特集は、「コンポーネントステレオ──世界の一流品」というタイトルで、
いくつものオーディオ機器が紹介されている。

JBLの4343、4350、マークレビンソンのLNP2とJC2、SAEのMark 2500、ヴァイタヴォックスのCN191、
EMTの930stなどなど、このまま思いつくまま挙げていけば、それだけでかなりの分量になるくらい、
何が紹介されていたか、どんなことが書かれていたかは、かなりはっきりと憶えている。

41号と同時に発売されていた別冊の「コンポーネントの世界」との2冊で、
一気にオーディオにのめり込んでいく。

とはいえ中学2年、まだ13歳。アルバイトはまだ禁止されていたし、
中学校の英語教師の息子がもらえるこづかいは、まぁ、そのぐらいだった。

それなのに、4343がいつか買えると思っていたというよりも信じていたし、
LNP2にしても930stだって、そうだ。そう遠くないうちに手に入れられる──、
そんな夢みたいなことを、何の根拠も計画もなしに思っていたのが、いま思い返してみても不思議である。

なぜなんだろう、といまでも思う。

あのころのステレオサウンドに載っていた文章、つまりオーディオ評論には、
いまのオーディオ評論には、ほとんどなくなってしまったものかあったのか。
そうだとしたら、それは何だったのだろうか。

それとも私が歳をとって感じとれなくなりつつあるとしたら、それはいったい何なのか。

はっきりとは感じとれなくても、すべての文章にはなくても、
あのころのステレオサウンドで読んだオーディオ評論には、あきらかに「希望」があった。

この希望の存在が、単なる憧れだけでは終らせなかった。いまは、はっきりとそう思う。

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