挑発の最近のブログ記事

トーレンスの101 Limitedには、アナログディスクが2枚ついてきた。
101 Limitedにあわせて金色のジャケットの、いわゆる高音質盤とよばれる仕様で、
ボップスとクラシックが1枚ずつ。

クラシックはリッカルド・シャイー指揮ナショナルフィルハーモニックによるロッシーニの歌劇序曲集だった。

じつはシャイーの演奏を聴いたのは、このレコードが最初だった。
シャイー、27か28歳の演奏で、なかなかどうして聴いていて気持の良いものだった。
あまり話題にはならなかったように記憶しているが、音にも気持の良さがあって、わりとよく聴いていた。

期待の若手指揮者のひとりになった。
けれど、低迷とまではいわないが、ある時期、あまりぱっとしなくなってきた印象があり、
ここしばらくはシャイーの新譜に興味をもつことはなかった日が、けっこうな期間続いていた。

それが、この2年くらいのあいだに、私の中で、急に復活してきた感があり、
今年1月に発売されたマタイ受難曲は、聴ける日が待ち遠しかった。
輸入盤入荷の翌日に購入。仕事が忙しく、聴いたのは2日後になってしまった。
トーレンスの101limited(930st)には、TSD15以外のカートリッジもとりつけては、
しばらく聴いていたことがある。
ノイマンのDST、DST62がそうだし、トーレンスのMCHIも付属していたので使っていた。

その他にもフィデリティ・リサーチのFR7のEMT仕様モデルを一時期試したこともある。

それに当時オーディオテクニカから発売されていたEMT用のヘッドシェルに、
気になるいくつかのカートリッジをとりつけては試聴していた。
このときイケダのIkeda9も試している(ただしヘッドシェルを加工する必要がある)。

内蔵のイコライザーアンプ155stを通したり、
トーンアームから出力をとりだし別途コントロールアンプを用意して聴いたり、けっこうあれこれやっている。

部分的には、TSD15以上の音を出すカートリッジは少なくない。
それでも、レコードプレーヤーシステムとして、信頼できるかどうかとなると、話は違ってくる。

やってみればわかるのだが、930stで聴くかぎり、TSD15のとき、いちばん信頼できる音が出てくる。
だからTSD15、それも丸針ではなく、新しいディスクを聴くことが多かったこともあり、
SFL針のTSD15が常用カートリッジの座にあった。

一流のプロ用機器であれば、信用はできるだろう。
けれど、優れたプロ用機器のすべてが信頼できるかというと、かならずしもそうではないだろう。

結局、誠実であるからこそ信頼できる。信頼して使える。信頼して心をあずけられる。
「誠実」ということでは、カスリーン・フェリアーの歌こそが、私にとって、
ある意味、もっとも、そして静かに挑発的であるといえよう。
カザルスの、生命力が漲るベートーヴェンの交響曲第七番を聴いたばかりのころは、
どうしても耳は、強い緊張感の持続、燃えあがるような表現に傾きがちだったが、
なんどとなく聴いていくうちに、それだけでなく、カザルスの音楽に対する誠実さに気がついていく。

もうどこで見たのかも忘れてしまったが、カザルスとクララ・ハスキルが写っていた写真があった。
このふたりの演奏家に共通しているのは、音楽に対する誠実な態度であり、
その写真は、つよく、その誠実を伝えてくれていた。

パブロ・カザルスは、1876年12月29日、
クララ・ハスキルは、1898年1月7日生れで、ふたりとも山羊座であることは、単なる偶然とは思えない。

音楽に対して誠実であることの重要さを、ふたりの演奏を聴いていくごとに実感していくと、
オーディオ機器においても、とくに音の入口については、
誠実であることはかけがえのないことだと、理解できるようになっていく。

これが、カザルスのベートーヴェンを聴きつづけてきて得たもののひとつである。
五味先生は「ステレオ感」(「天の聲」所収)で、EMTの930stのことを、次のように書かれている。
     ※
いわゆるレンジののびている意味では、シュアーV一五のニュータイプやエンパイア一〇〇〇の方がはるかに秀逸で、同じEMTのカートリッジをノイマンにつないだ方が、すぐれていた。内蔵イクォライザーの場合は、RIAA、NABともフラットだそうだが、その高音域、低音とも周波数特性は劣下したように感じられ、セパレーションもシュアーに及ばない。そのシュアーで、例えばコーラスのレコードを掛けると三十人の合唱が、EMTでは五十人にきこえるのである。私の家のスピーカー・エンクロージアやアンプのせいもあろうと思うが、とにかくおなじアンプ、同じスピーカーで鳴らして人数が増す。フラットというのは、ディスクの溝に刻まれたどんな音も斉みに再生するのを意味するだろうが、レンジはのびていないのだ。近頃オーディオ批評家の(むしろキカイ屋さんの)揚言する意味でハイ・ファイ的ではないし、ダイナミック・レンジもシュアーのニュータイプに及ばない。したがって最新録音の、オーディオ・マニア向けレコードを掛けたおもしろさはシュアーに劣る。そのかわり、どんな古い録音のレコードもそこに刻まれた音は、驚嘆すべき誠実さで鳴らす、「音楽として」「美しく」である。
     ※
EMTもスチューダーも、最新の音を聴かせてくれるわけでもないし、最高性能に満ちた音でもない。
信頼の技術に裏づけられた音だ。
はったりもあざとさもない、それこそ誠実さで音楽を鳴らしてくれる。
だから信頼できる。

井上先生は、「レコードは神様だ、疑うな」と言われた。
そのために必要なのは、私にとっては、驚嘆すべき誠実さで鳴らしてくれる機器なのだ。

だからこそ、音の入口となるアナログプレーヤー、CDプレーヤーに、EMTとスチューダーを選ぶ。

ときに押しつけがましく感じることのある、思い入れのたっぷりの機器は要らない。

ただし、これがアンプの選択となると、なぜだか、そういう機器に魅力を感じてしまうことも多い......。
プロ用機器とコンシューマー用機器の違いは、音づくりの違いとも言える。

プロ用機器は、その器材がどういう用途でどういう状況で使われるのか、
そして求められる性能と信頼性の実現が、最優先されていることだろう。

そこには──あえて言うが──アマチュアの、思い入れは存在していない。

別項で書いているマークレビンソンの初期のアンプとは、
正反対の考え方からつくりこまれているともいえるだろう。

EMTもスチューダーも、もちろん試聴テストをくり返し行なっていることだろう。
だが、試聴よりも、まず研究・開発の比重の方がずっと大きいように感じられるのだ。

パーツの選択にしても、マーク・レヴィンソンは、おそらく入手できるかぎりのパーツを集めて、
ひとつひとつをひとりで聴き選んでいった──そう勝手に想像しても、間違っていないだろう。

EMTやスチューダーのパーツの選択は、まず信頼できるものを、というふうに感じられる。
求めている性能を満たしていて、なおかつ長期間に渡り安定していること。
この安定していることは、設計面に関しても言えることだ。

ひとつの機器をつくりあげるまでの試聴の回数も、マーク・レヴィンソンの方がずっと多いかもしれない。

だからプロ用機器の音を素っ気無く感じてしまう人がいても不思議ではない。
逆に言えば、それは堅実で信頼できる音づくりでもあり、
これこそEMT、スチューダーに共通する良さ、誠実さだ。
1987年に、スチューダーのA727を購入した。
このとき、どちらにしようか、すこしだけ迷った機種がある。アキュフェーズのDP70だ。

アナログプレーヤーは、101 Limited (930st) がある。
だからまるっきり傾向の異るモノを、CDプレーヤーとして選ぶのもいいような気がした。
そうなると、DP70がぴったりだった。

ステレオサウンドの試聴室で、2機種ならべて聴き較べしようと思えば、できた。めぐまれた環境だと思う。
けど、あえてしなかった。
結論は、LHH2000を最初に聴いたあと、自宅で101 Limitedの音を聴いた時に出ていたからだ。
2年前のことを思い出せばよかった。比較試聴の必要はなかったのだ。

フィリップスのLHH2000は、本体とコントロールパネルはワイヤーで接続されている。
当然だが、コントロールパネルを外してしまうと、ディスクをセットしても再生はできない。

けれど、細かいことは忘れてしまったが、LHH2000本体のリアパネルにある、
コントロールパネルとの接続用のコネクターの、特定のピンをショートさせることで、
コントロールパネルを外しても、ディスクの再生が可能になる。
もちろんディスク先頭から再生するだけで、スキップなどはできない。

けれど、この時の音を一度聴いてしまうと、多少の不便さは我慢しようと、誰もが思うだろう。

コントロールパネルが発しているノイズを遮断できるからなのだろうが、すーっと音が抜ける。
そして(聴感上の)ダイナミックレンジがローレベル方向に伸びるのがわかる。
音楽の躍動感が、いっそう増す。
LHH2000は、ステレオサウンドの試聴室で数回聴いている。ロットはすべて異る。
いずれもLHH2000の音なのは当然なんだが、最初に聴いたLHH2000の音が抜群に良かった。

なにも初めて聴いたLHH2000の音だから、記憶として鮮明なためではなく、
他社製のCDプレーヤーやアナログプレーヤーの音とも比較しているから、
やはり最初に聴いたLHH2000が良かったのは、事実だろう。

とにかく音の安定感がよかった。
そうCD登場前夜に聴いたCD63が聴かせてくれた安定度の高さを思い起こさせる。

LHH2000のピックアップ部はCDM0だと言われている。真鍮製のベースだという。
おそらくCD登場前夜のCD63のピックアップ部も、CDM0だったのではないか。
そして量産品はアルミ製のCDM1になっている。

そうだとしたら、あの日の音の凄さのわけが納得できる。

内部を見て確認したわけではないが、 LHH2000は途中からCDM1に変更されたとも聞いている。
もしこれが事実なら、最初のLHH2000が凄かったわけだ。

CDと真鍮は、意外と相性がいいのかもしれない。
なぜかといえば、LHH2000の後継機として、フィリップスとスチューダーが共同開発したA730、
このモデルのピックアップ、CD-ROMも読取り可能なCDM3(アルミ製)を、
サブシャーシに取りつけフローティングしていた。
サブシャーシには一部真鍮が使われていた。

A730の音の安定感も格別のものがあった。
帰りの電車の中でも、欲しい、と思いつづけていた。
さすがにLHH2000の音が耳に残っている状態で、帰宅してまで、CDの音を聴きたいとは思わなかった。
それでアナログディスクを鳴らすことにする。

鳴ってきた音を聴いて、「な〜んだぁ」と思った。
LHH2000に感じていた良さは、そのまますべて101 Limited (930st) から出ているのに気がついたからだ。
LHH2000を強烈に欲しいと思った理由はわかった。
しかも、この音には、当然だけど、デジタル特有のジュルジュル音はまったくない。

さっきまでの悶々とした気持ちは、もうどこにも、小さなかけらすらない。
LHH2000のおかげで、プログラムソース機器に、自分が何を求めているかがはっきりした日でもあった。

LHH2000の音は、その後、数回聴いている。
そして感じたのは、CD63を聴いて感じていたのと同じ疑問である。
フィリップスの業務用CDプレーヤー、LHH2000の音は、CD63をはじめて聴いた時と同じように衝撃だった。
CDが登場して3年経って登場したLHH2000は、D/Aコンバーターの分解能が14ビット。
なのに、その音には圧倒された。CDから、こんな音が出るのか、欲しい、とストレートに思った。

ただすこし冷静になると、別に冷静にならなくても、LHH2000の再生音には、
中域にデジタル機器特有のジュルジュルというノイズが出ているのに気がつく。

1982年に、JBLのスタッフがL250と一緒に持ち込んだデジタルレコーダーも、
このジュルジュル音を出していた。

CD63には、こんなノイズはなかった。国産のCDプレーヤーにも、ない。
この高価なCDプレーヤーには、なぜかある。

ドライブ/信号処理部とコントロールパネルに分かれているLHH2000の筐体は奥に長い。
ピックアップ部の後ろには長方形のプリント基板が、6枚くらい、
コンピューターの拡張カードと同じように、メイン基板に垂直に立っている。
ひとつひとつ基板にはLSIをはじめパーツがかなり取りつけてある。
なぜ、こんなにパーツが必要なのかと思うほど、だ。

しかもある基板に取りつけてあるパーツは厚みがあるため、隣の基板と接触しそうで、
応急処置的に絶縁テープが貼ってあった。
このへんが、ジュルジュル音に関係しているのかもしれない。

それでも欲しいと思っていた。
CD63で、はじめてのCDの音を聴いた後、もう一度P3でアナログディスクを鳴らす。
あれほど安定した音を出してくれるプレーヤーとして頼もしく感じていたP3の音が、
なんとも不安を感じさせる音にしか、もう聴こえない。

CDの音すべてがP3の音をうわまっていたのではない。
けれど、ゆるぎない安定感のある音を、目の前のちっぽけな機械が、いとも簡単に実現している。

それまでは、安定した音のためには、ある程度の物量投入が要求されるもの、
そう思っていたし信じていた。なのに......、である。
これが技術の進歩なのか、新しい音なのか、とおそらく編集部全員思っていただろう。
聴き終った後、興奮気味に話していた。

しばらくしてステレオサウンドで特集記事で、各社のCDプレーヤーの試聴を行なった。
もちろん、その中にCD63も含まれていた。
また、あの音が聴ける、と内心喜んでいた。
価格順にひとつひとつ聴いていき、やっとCD63の番。
けれど、鳴り出した音に、あの日の、圧倒的な安定感は、なぜだかわからないが、なかった。

理由と思われるものは、もう少しあとになってわかる。
それがLHH2000の、「最初」の音だ。
TSD15を取りつけた930stの音を、しみじみ、いい音だなぁ、と思ったことは幾度とある。

1985年、フィリップスの業務用CDプレーヤー、LHH2000が持ち込まれたときも、そう感じた。

CDが登場したのは、1982年10月。
発表日まで、CDの音を聴くことは、開発者・関係者以外いっさいできなかった。
26年前のCD発表日の前日の夜、ある人が、こっそりとステレオサウンド試聴室に、
CDプレーヤーとディスクを1枚持ってきてくれた。

はじめて聴いたCDの音だった。

ディスクは小沢征爾指揮によるR.シュトラウスの「ツァラトゥストラはかく語りき」、
CDプレーヤーはマランツのCD63だった。

同じディスクを、まずエクスクルーシヴP3とオルトフォンのMC20MKIIで聴いたあとに、
いよいよCDを鳴らす。

出てきた音に、編集部全員が驚いた。
P3は、その後もずっと使いつづけている、合板を何層も積み重ねた、高さ数十センチの、
重量も相当ある専用の置き台の上、
CD63は、天板のセンターから脚が出ている、そんなテーブルの上。
当時は、まだヤマハのラックGTR1Bも登場してなくて、置き台に関してもそれほど関心が払われてなかった。

いまの感覚では、置き台に関して不利な条件のCD63。
しかもP3は重量45kg、一方のCD63は片手がひょいと持てる軽さ、おそらく4〜5kgだろうか。
大きさだって、大人と子供以上に違う。

にも関わらず出てきた音の安定感は、CD63が数段うわまわっていた。
EMTの930st、トーレンスの101 Limited、呼び名はどちらでも良いが、
アナログプレーヤーとしての完成度は、コンシュマー用プレーヤー、
最近のハイエンドオーディオ・プレーヤーとも一線を画している。

1970年代のおわりには、クリアーなピンク色のディスクも、ハイクォリティディスクとして登場したが、
アナログディスクといえば、直径30cmの漆黒の円盤であり、
この円盤のふちを左右の手のひらでやさしく持ち、センターの穴周辺にヒゲをいっさいつけることなく、
すっとターンテーブルの上に置く。
そして最外周、もしくは希望する溝に、カートリッジをぴたりと降ろす。
この一連の動作を、ストレス無く行なえるプレーヤーは、930stの他に、いったいいくつ存在するだろうか。
昨日今日でっちあげられたプレーヤーとは出来が違う。

音質の新しさで、930stを上回るプレーヤーは、いくつかある。
930stを使ってきた者にとっては、プレーヤーとしての未熟なところが、目についてしまうこともある。

ノイマンのDSTを取りつけた930stの音はすごかった。
だからといって、TSD15での音がつまらないなんてことは、まったく感じなかった。

101 Limitedは、トーレンスのMCHIが付属カートリッジだったが、
TSD15も購入していたので、MCHIは、新しいレコードでトレースに不安を感じるときだけ使っていた。
もっとも超楕円のSFL針搭載のTSD15が出てからは、MCHIの出番は完全になくなった。
ノイマンのDSTとDST62の違いは、おもにコンプライアンスで、
1962年に出たDST62のほうが多少ハイコンプライアンスとなっている。

DSTでカザルスのベートーヴェンを終わりまで聴いて、そのまま間髪を入れずにDST62で、
もう一度カザルスを聴く。

DST62だけを聴いていればよかったのだが、DSTを聴いた後では、
やや普通のカートリッジ寄りになっていることに、不満を感じていた。

ひとりで聴くには、なんとももったいない音で、当時サウンドボーイの編集長Oさんともいっしょに聴いたし、
後日、Oさんの友人で、サウンドボーイの読者訪問に登場されたことのある、
タンノイ・オートグラフを使われている方とも、やはりカザルスのベートーヴェンを聴いた。

年齢が、それぞれ10歳ほど違う三人とも、DSTの音に「白旗をあげるしかないね」ということで同じだった。

DSTとDST62は、自宅でも数週間にわたって聴いた。
まずは、DSTを取りつけて、ひとりで聴いた。

カザルス/マールボロ音楽祭管弦楽団のベートーヴェンのディスクは国内盤で、
宇野功芳氏が解説を書かれている。

触れれば手から血が出る、こんな表現を使われていた。

DSTが鳴らしたカザルスは、まさしく触れれば手から血が出る音。
それも他のプレーヤー、他のカートリッジではカミソリの刃ぐらいだったのが、
DSTでは、おそろしく切れ味の良い刃物になる。質量のある切れ味だ。

若さもあってか、この音には惹き込まれた。
カザルスのベートーヴェンのディスクを聴いた数ヶ月後に、
EMTの930st(正確にはトーレンスの101 Limited)を購入した。衝動買いである。

ただすぐに持って帰れずに、撮影するためにステレオサウンドの試聴室に置いていた。
ちょうどそのころ、ある人が、ノイマンのカートリッジ、DSTとDST62を貸してくれた。

101 Limitedにとりつけて、内蔵のイコライザーアンプ155stをそのまま使い、
最初にかけたレコードは、当然、カザルスのベートーヴェンの第七番である。

凄い音とは、まさにこのことだと思った。
カザルスがベートーヴェンの交響曲第七番を振ったとき、92歳のはず。
にもかかわらず、この演奏をつらぬいている強い緊張感の、驚異的な持続、
そのためだろう、音楽の生命力が、一瞬たりとも失われないどころか、
第3楽章、4楽章では、さらに燃えあがっている。

いわゆる、うまい演奏ではない。表現技巧においては、カザルス/マールボロ音楽祭管弦楽団よりも、
数段優れている指揮者/オーケストラはいくらでもあるだろう。

けれど、ベートーヴェンの音楽、とくに交響曲に、私が強く感じている、
いま鳴っている音が次の音を生み出す、そういう感じをこれほど聴かせてくれたものは、そうそうない。
ベートーヴェンの音楽は、そして音の構築物でもある。

カザルス/マールボロ音楽祭管弦楽団による演奏は、
1976年、アメリカのHigh Fidelity誌創刊25周年号に掲載された、歴史的名盤のなかで、
ベートーヴェンの交響曲第七番のベストに選ばれている。
黒田先生が、ステレオサウンドの58号(だったと思う)に、
カラヤン指揮のワーグナーのパルジファルのレコードを聴き、
そこにおさめられている音楽・録音に挑発され、
それまでお使いだったコントロールアンプ(ソニーのTA-E88)に対して力不足を感じられ、
マークレビンソンのML7Lに買い替えられたことを書かれている。

ディスクが、聴き手を挑発する。

あるディスクに挑発され、システムの一部、もしくは全体を買い替えることになったとか、
それまでの調整(チューニング)の方向をまるっきり変えてしまうことになったとか、
そういう経験はないだろうか。

私にとっての「挑発するディスク」は、
パブロ・カザルス指揮マールボロ音楽祭管弦楽団によるベートーヴェンの交響曲第7番。

1969年のマールボロ音楽祭のでのライヴ・レコーディングで、
発売はたしか1976年ごろ、
このディスクをはじめて聴いたのは、ステレオサウンドの試聴室で、1983年ごろだった。
サウンドボーイ編集長のO氏に教えてもらって、だ。

それまで使っていたスピーカーはロジャースのPM510。
とても気に入っていたし、手放したいまでも、ふと聴きたくなることもあるが、
カザルスのベートーヴェンに聴かれる、
つよい緊張感、音楽の生命力の漲る感じや尊さが、十分感じられるものの、
やはり基本的にグッド・リプロダクションのスピーカーであり、
ほんとうは、もっともっとヴァイタリティを終始持続した演奏のはずだという思いが、
拭いきれないまま聴いていた。

できれば、部屋に2組のスピーカーを置けるだけの余裕、
それと経済的な余裕があれば、PM510を手放さずにすんだのだが、
ハタチの若造には、どちらも無理なことだった。

そして選んだスピーカーは、シーメンスのコアキシャル・ユニットだ。
これを、サウンドボーイで製作した平面バッフル(縦1.8m×横0.9m)に取りつけ、
6畳弱の部屋に、聳え立たせていた。

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