言葉の最近のブログ記事

テーマはいくつもあるのに、ときに書くのにひどく苦労する日がある。

なぜか、と思って振り返えれば、そういう日の多くは、書いては消し、をやっている。
文章が気に入らないから、消す。
なぜか、といえば、感情がこもっているから。

演奏や歌で、「感情をこめて!」と音楽の先生が、生徒に向って注意する、という、
映画や小説などで、よくありそうなシーンだが、
「感情をこめた」演奏や歌は、ほんとうに名演奏なのか──、聴く人の心を打つ、とは私は思っていない。

演奏家や歌手に求めたいのは「心をこめた」演奏なり歌である。

感情をこめているようでは、文章もダメである。
こめるのは「心」であり、私が「この人の書いたものはすべて読みたい」と思った人たち、
川崎先生、黒田先生、瀬川先生、そして五味先生の書かれる文章は、
その人ならではの「心」がこもっていた。

私は、まだ未熟だ。
情報量が多いことが「善」だとして、情報量の追求をしていく行為で、
注意してほしいのは、その過程において「あからさま」にしていくことに快感をおぼえてしまうことだ。

「あからさま」な音は、すべての音が主張をしはじめる。
大げさな表現では、すべての音が自己顕示欲をむき出しにしてくる。

そこには慎みも恥らいは、ない。
そんな音に、品位は存在しない。

音と音楽のあきらかな違いが、このへんにありそうな気がする。
複数のテーマを並行して書いているから、書くことに困ることはない。
でも、指が動きを止めてしまう日は、どうしてもある。
書きたいことはあるのに、書き始めがうまくいかなかったり、
言葉が浮かんでこない日がある。

川崎先生は、毎日、ブログを書き続けることは「修業」だと書かれている。
自分を修練させるために「ことば」の世界に入る、と書かれている。

まだ、私はその域には達していないけど、そのとおりだと感じている。
毎日書くことは、努力ではなく、たしかに修業である、と。

そして、もうひとつ感じていることは、書くことによって、
自分自身をプログラミングしているような気もする。
毎日書くということと、毎日ブログを公開していくということは、同じことではない。

あるテーマについて書くとき、毎日少しずつ書いては公開していくやり方より、
一度に集中して、まとまった量を書きあげて、それを分割して日々公開していく方が、ずっと楽である。

書き溜めておけるし、毎日書かずにすむ。

いまのやり方をしていると、ときどき、「思わず」書いてしまうことがある。
それをそのまま公開して、話がどんどん逸れてしまい、本来のテーマに戻れるのか、と、
自分でも心配になることがある。

「思わず」書いてしまったことは、直後にはたいてい、書かなければよかったかも......、と思うこともある。
それでも、書き進めていくうちに、自分で書いておきながら思わぬ展開になり、
「思わず」書いたことが結果的にはよかったとも思うことがあるため、いまのやり方を続けている。

「思いつき」や「思いこみ」で書くことは、さけるべきである。
けれど、「思わず」という感覚は、意外に大切なものなのかもしれない。
「音は人なり」という五味先生のことばは真実であり、そこだけにとどまっていないと思う。

「人は音なり」も、また真実のような気がする。

「音は人なり」が示すように、その人の生き様が、音に反映される。
だがそれだけ終ってしまうわけではなく、その人となりが顕在化した音に、
聴き手は知らず知らずに影響を受けている。

使っているオーディオ機器、そこで鳴っている音に、聴く音楽が左右される。
オーディオ機器を使っているつもりで、油断しているとオーディオ機器に使われている。
鳴っている音に、影響されていないと断言できる人が、はたしているだろうか。

生き様が音にあらわれ、その生き様が音として、もどってくる。

ぬるい生き方ならば、ぬるい音がもどってくる。
いびつな生き方をしていたら、いびつな音がもどってくる。
そして音に影響され、またそのことが音に反映される。悪循環ではないか。

真剣な生き様であれば、真剣な音が鳴ってくる。
熱い生き様であれば、熱い音が鳴ってくる。
そういう音が戻ってくる、影響される。そしてまた音に反映される。

「オーディオは趣味だから」という逃げを口にしたら、そのことが音としてあらわれる。
解答 (=Solution)の「解」は、
MACPOWER vol.3(2008年)に掲載されている、川崎先生の「ラディカリズム 喜怒哀楽」を読んで、
解体・解剖・分解だと思ってきた。

もうひとつあることに、気がついた。解放があった。

オーディオは、複雑な幼稚性から解放されなければならない。
「現代的な幼稚症! それはオネゲルおいてすでに告知され、ショスタコーヴィッチにおいて全盛をきわめた。
まさにアルバン・ベルグやシェーンベルクなどの重荷を負った労苦とは正反対のものである。
幼稚症は、さらに無遠慮に、自己の心理的な状況を大衆のそれに優先させようとする。」

こう、フルトヴェングラーが「音楽ノート」で語っているのは1945年のときである。
60年以上前の言葉なのに、いまもそうじゃないか、と、
「現代的な幼稚症」という言葉が心にひっかかってくる。

いまは「複雑な幼稚性」が静かに蔓延っている時代のように思えてならない。
オーディオもそうだ。
複雑な幼稚性が、大事な本質を覆い尽くそうとしている、といったら言い過ぎだろうか。

具体的な例はあえて挙げない。

ただ「単純 (=Simple)」を、否定的、消極的な意味で捉えているようでは、
いつまでも答は見出せない。そう確信している。

そして「答には、3つある」
MACPOWER vol.3に掲載されている「ラディカリズム 喜怒哀楽」で、川崎先生は書かれている。
「応答 (=Reply)」、「回答 (=Answer)」、「解答 (=Solution)」の3つである。
バックナンバーは入手可能のようだから、ぜひお読みいただきたい。
「音楽は、案出されたり構築されたりしたものではなく、成長したもの、
いわば直接に『自然の手』から生まれ出たものである。この点において、音楽は女性に似通っている。」
そう、フルトヴェングラーは「音楽ノート」で語っている。

音楽を文章に置き換えても、そのまま通用する気がする。

「自然の手」がどういうものかについては語られていない。
前後の文章もない。これだけ、である。

それは人が生れたときから持っているものなのか、それとも身につけるものなのか......。

「自然の手」から文章を生み出せるようになるには、どうしたらいいのかはわからない。
それでも、書くことを、一日たりとも忘れてはならない。これだけは言える。

正しいもの

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正しいデザインとは、なんだろうと、ふと思ってしまった。

美しいデザイン、カッコいいデザインと言ったりする。
オーディオにおける音、これも、美しい音と言う。そして正しい音という言葉も使う。
録音と再生の、ふたつのプロセスがあるため、
元との比較の意味合いで「正しい」という単語が自然と使われるのだろうが、
正しいデザインと同じ意味での正しい音、そんなものがあるのか、そういうことが言えるのか。
正しいもの、とは、いったいどんなことなのか。

フルトヴェングラーの「音楽ノート」を開く。

1945年の言葉。
「肝要なことは、精神の豊かさでもなければ、深い感情でもない。
ひとえに正しいもの、真実なものである(私は六十歳にしてこのことを記す)。」とある。

ここでフルトヴェングラーが言っている「正しいもの」とは、
同じ1945年の次の言葉が語っている。

「思考する人間がつねに傾向や趨勢のみを『思考する』だけで、
平衡状態を考えることができないのは、まさに思考の悲劇である。
平衡状態はただ感知されるだけである。
言い換えれば、正しいものは──それはつねに平衡状態である──ただ感知され、体験されるだけであって、
およそ認識され、思考されうるものではない。」

フルトヴェングラーが言う、正しいものとは、つねに平衡状態であること。
平衡状態に関する言葉で、「静力学的」という言葉も使っている。

やはり、これも1945年の言葉である。

「芸術家の立場から言えば、過度の感情と、たんに『思考された』観念とは本質的に同じものである。
両者ともに『静力学的(シュターティッシュ)』には重要でない。
私はこのことをつねに感じていたが、それを認識するまでに残念ながらほぼ六十年を費やした。」と語り、
さらに「正しい均衡を保ち、『静力学的』に安定している楽曲は、決して法外な長さを必要としない。」という。

「楽曲」をデザインに置き換えてみる。
「正しい均衡を保ち、『静力学的』に安定しているデザイン」は、なにを必要としないのだろうか。
楽曲における法外な長さは、デザインにおけるなんなのだろうか。法外な冗長さだろうか......。

音に置き換えてみるとどうだろうか。
「正しい均衡を保ち、『静力学的』に安定している音」、
なんとなくイメージできそうな気がするようなしないような。

正しい音が必要としないのは、やはり法外な冗長さだろうか......、法外な情報量かもしれない。
恥じらいのないその光は、素顔の隅々まであからさまにする──
かわさきひろこ氏は書かれている。

「あからさま」と「あきらか」とでは,明らかに、言葉の持つ意味合い、与える印象がはっきりと異る。

音の情報量をすこしでも精確に、すこしでも多く再生したいとのぞむとき、
恥じらいを失っていては、あからさまにしていくだけになりはしまいか。
恥じらいのない行為──、愛のない行為でもあろう。

川崎先生は、よく、3つの言葉を掲げられる。
「いのち、きもち、かたち」もそうだし、「機能、性能、効能」もそうだ。

川崎先生に倣い、「情報」について考えるとき、あと2つの言葉を考えてみた。
ひとつは「情景」。これはすぐに出た。
もうひとつはなにか......。
しばらく考えて思いついたのは、「情操」だった。

他の言葉が、もっとぴったりはまるかもしれない。
だとしても、情報量について、これから書いていくとき、
「情報・情景・情操」をもとに考えていくつもりだ。
芸術とは非大衆的な事柄である。しかも芸術は大衆に向かって語りかける。
不可思議なことは、最も単純なものは最も偉大な人によってのみ表現されるということ、
そして最も複雑なものは街路に転がっているということである。

偉大さとは魂のうちにある。
     ※

フルトヴェングラーが1929年に語っている言葉である。

「単純」を、考え方が一面的であると捉えている人が少なくないように思う。
単純(シンプル)と原始的(プリミティヴ)をごっちゃにしていないだろうか。
考え方が一面的なことは、原始的(プリミティヴ)と呼ぶべきだろう。

否定的な意味合いで、単純(シンプル)という言葉を使うのは、
いつ終わりになるのだろうか。

石井幹子氏の言葉について書いたあと、しばらくして、そういえば、照明について、
やはり女のひとが書いている記事があったなぁ、と思い出し、
5年前、インプレス社から発行された、
2号のみの刊行で終ってしまった雑誌「desktop」をひっぱり出した。

引用しておく。
     ※
真夜中、コンビニの無機質な光源むき出しの光に、私たちは虫のように集まっている。余剰すぎる明るさが、安心感すら与える。けれど、恥じらいのないその光は、素顔の隅々まであからさまにするから困ってしまう。
私たちは「明るい」、「まぶしい」には無頓着。その一方で「暗い」ことには過敏で神経質である。行為、行動を妨げる夜の暗闇は怖い、恐いとまで感じる。
(中略)
目に見えるはっきりとした明るい世界がすべてではない。
見えない、見渡せない、見通せない暗闇には、その隅っこや境界、限界をとらえることはできない奥深さや広がりがある。
     ※
石井氏、かわさき氏の、光というよりも「あかり」に関する文章を読んでいると、
音の情報量について、きちんと考え直す必要があると思えてならない。

情報量は、ワイドレンジとも絡んでくるし、音量との関係も深い。
そして、もっとも大事なのは、音楽の聴き方そのものに大きく関わってくることだ。

情報量については、しばらくして書くつもりでいる。
いま発売されている週刊文春11月6日号に掲載されている、
照明デザイナーの石井幹子氏のインタビュー記事は、
そのままオーディオに置き換えられる興味深い話がいくつもある。

石井氏は、フィンランドの著名な照明デザイナーのリーサ・ヨハンセン・パッペ氏の教え、
「照明で最も大事なのは光源」
「光は見るものではなく浴びるもの」
「ルックス(明るさの単位)は数字でなく感覚で理解すること」
このライティングの基礎がいまも座右の銘と語られている。

これらは、こう置き換えられるだろう。
「オーディオで最も大事なのは音源」
「音は聴くものではなく浴びるもの」
「dB(デシベル)は数字でなく感覚で理解すること」

さらに「人を魅きつけるあかりは陰翳のグラデーションの中にこそある」、と語られ、
「照らしすぎた照明では、人は『見える』としか感じられない」、とされている。

情報量の多すぎた音では、人は「聴こえる」としか感じられない、
そういう面が、いまのオーディオにはあるような気がしてくる。

例として、石井氏は、
「目の前の茶碗ひとつにしても、ポッと柔らかなあかりが灯ったところ──
明と暗の中間に美しい陰翳があれば、人の記憶に訴える」ことをあげられている。

情報量が多いだけの音では、記憶に訴えられない、
そんな音で聴いて、音楽が記憶に残るのだろうか、
心を揺さぶるのだろうか。

柔らかな明かりで陰翳をつくれば、ディテールはどうでもいいというわけではない。

「仕事はディテールこそが全体を左右する」と言われている。

欧米の文化が「光と闇の対比」で照明をとらえるのに対して、
日本的な「光と闇の中間領域のグラデーションの美」を表現してみたい、とのこと。

示唆に富む言葉だと思う。

わずか3ページの記事だが、ぜひ読んでもらいたい。

もうひとつだけ。
経験則として語られているのが、人の記憶を呼び覚ます照明デザインは理屈じゃなく、
「肩を寄せあって見つめるにふさわしいあかり」を実現できれば、
「人はそのあかりのもとに集まってきてくれるだろう」と。

なぜ音に関心をもつ人が少数なのか。そのことをもういちど考えなおす、良きヒントだと思う。
21歳ぐらいのときか、西日暮里にあった伊藤(喜多男)先生の仕事場に伺ったとき言われたのが、
「アンプを自作するのなら、1時間自炊をしなさい」であり、肝に銘じてきた。

1年ほど前に、伊藤先生がつくられた
ウェスタンの349Aプッシュプルアンプを聴いて(無線と実験に発表されたモノ)、
当時使っていたロジャースのPM510に組み合せるのは、「このアンプだ」と思っていた時期であり、
自分でそっくりの349Aアンプをつくろうと思っていることを話したら、上の言葉をいただいた。

つまり人間の感覚のなかで、聴覚は、味覚に比べると目覚めるのが遅い。
味の好き嫌い、おいしい、まずいを判断できるようになる時期と比べると、
聴覚のその時期は人によって異るけど、たいていはかなり遅い。

目覚めの早い味覚、言い変えれば、つきあいの長い自分の味覚を、
自分のつくったもので満足させられない男が、
つきあいの比較的短い聴覚を満足させられるアンプをつくれるわけがないだろう、ということだ。
味覚も聴覚も視覚も、完全に独立しているわけでもない、と。

それにどんなに忙しくても1時間くらいはつくれるはずだし、
1時間の手間をかければ、そこそこの料理はつくれるものだ。
同時に、料理をつくる時間を捻出できない男に、
アンプを作る時間はつくれないだろう、と。

設計をする時間、パーツを買いに行く時間、選ぶ時間、アンプのレイアウトを考える時間、
そしてシャーシの加工をする時間、ハンダ付けの時間......、
それらの時間は料理に必要な時間よりも多くかかる。

納得できる。

1時間自炊はアンプの自作だけに限らない。
アンプやスピーカーを選択し、セッティングし、調整して、いい音を出すことにも、
ぴたりあてはまる。

井上先生がよく言われていたのは
「レコードは神様だ、だから疑ってはいけない」。

なかには録音を疑いたくなるようなひどいディスクもあるけれど、
少なくとも愛聴盤、自分が大事にしているディスクに関して、
疑うようなことはしてはいけない、と私も思う。

「このレコードにこんなに音が入っていたのか」ではなく、
「このレコードって、こんなにいい録音だったのか」と思ったことが何度かあるだろう。

己の未熟さを、少なくともレコードのせいにはしたくない。
「人は大事なことから忘れていく」
川崎和男氏の言葉。

だから、私はいまでも五味先生の文章を読み返す。
EMIのクラシック部門のプロデュサーだったスミ・ラジ・グラップは、 
「人は孤独なものである。一人で生まれ、一人で死んでいく。 
その孤独な人間にむかって、僕がここにいる、というもの。それが音楽である。」 
と語っている。

心に刻んでおきたい言葉のひとつである。

「比較ではなく没頭を」??フルトヴェングラーの言葉である。 

「音楽現代」7月号から連載がはじまった「フルトヴェングラーの遺言」(野口剛夫)で、

最初に取りあげられたのが、この言葉である。 


1954年11月にフルトヴェングラーは亡くなっているから、残されている彼の録音はモノーラルであり、

夥しいライヴ録音には、けしていい録音とは言えないものも多い。 

にも関わらず、スタジオ録音、ライヴ録音に関係なく、

CD時代になり、リマスター盤が多く出ている。SACDまで出ている。 

マスターテープからの復刻、テープの劣化を嫌って、オリジナルLPからの復刻、

その方法も20ビットハイサンプリングでデジタル化などもある。 

それらすべてを聴いたわけでは、勿論ない。聴くつもりもない。

それでも、いくつかを聴くと、たしかに音は異なる。 

もっともアナログディスクもなんども復刻されている。 


グールドも、リマスターの種類は多い。 

オリジナルLPを含めて、どれかいいのか、どう違うのか、比較するのは楽しいといえば楽しい。 

情報もモノもあふれているいまは、比較をしようと思えばいくらでもできる。

そして、自分なりに感じたその違いを、簡単に公表できる。

これが、比較することをあおっているような気もする。 

レコードに限らない、よりよいモノを求めるために比較する、そんな声がきこえてくる。 

けれど、それは比較することに没頭してしまう罠に嵌ってしまうかもしれない。 


いうまでもなく没頭したいのは、

フルトヴェングラーの演奏であり、グールドの演奏であるのはいうまでもない。 

そして、よりよいモノ、最上のモノを選んだとしたも、

結局、あたえられたものを聴いているのだということに気づいてほしい。

「天才を作るのは高度な知性でも想像力でもない。知性と想像力を合わせても天才はできない。愛、愛、愛......それこそが天才の魂である。」 

モーツァルトの言葉。 
いい音を生み出すのも、愛、愛、愛であろう。他に何があろう。

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