五味康祐の最近のブログ記事
ヴァンゲリスを取りあげられたときにつけられたタイトルである。
この号の編集後記で、KEN氏は、
異相の木は、人それぞれだろう。自分にとっての異相の木があるのかないのか。
異相の木はなんなのか。
その異相の木は、ずっと異相の木のままなのかどうか。
そんなことを考えてみると、おもしろい。
昭和27、29年ごろ、五味先生、瀬川先生、菅野先生は、
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たとえばJ・B・ランシングの〝パラゴン〟の音である。知人宅にこいつがあって、行く度に聴くのだが、どうにも好きになれない。あげくには、パラゴンを愛聴する彼と絶交したくさえなってきた。誰が何と言おうと、それは、ジャズを聴くにはふさわしいがクラシカル音楽を鑑賞するスピーカー・エンクロージァとは、私には思えないし、モーツァルトの美がそこからきこえてくるのを聴いたためしがない。私の耳には、ない。知人は一人娘の主治医でもあるので、余計、始末がわるいのだが──世間では名医と評判が高いから娘のからだはまかせているけれど──こちらが大病を患っても、彼には診てもらいたくないとパラゴンを聴くたびに思うようになった。
まあそれぐらいジムランの音色を私は好まぬ人間である。
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ここまで書かれている。パラゴンとメトロゴンの違いはあるけれど、
(中略)
「神を」のあとに、どの言葉を続けるか......。五味先生は「視ている」である。
五味先生の文章を読んでいて、こちらの心につき刺さってきた言葉はいくつか、というよりもいくつもある。
五味先生について語るとき、「神を視ている。」は、重要な言葉のひとつだといまも思っている。
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五味先生の内にあった神とは......。
五味先生は、「フランク《ヴァイオリン・ソナタ》」で次のように書かれている。
「色はあるが光はない」とセザンヌは言った。画家にとって、光は存在しない、あるのは色だけだと。光を浴びて面がどういう色を出しているかだけを、画家は視ておればいい。もともと、画布が光を生み出せるわけはないので、他のものを借りてこれを現わさねばならない、他のものとは、即ち色だ──「そうはっきり悟ったとき私はやっと安心した」と、ルノアールも言っている。セザンヌの言うところも同じだろう。──この筆法でゆけば、ぼくらレコード鑑賞家にとって音楽はあるが、ヘルツはない、そう言い切って大して間違いはなさそうに思える。演奏はあるが、ナマの音は存在しない、そう言いかえてもいいだろう。
絵画に関しては素人だが、フェルメールの絵がすごい、のは、
光が存在しない画布に絵具を重ねただけなのに、
光を感じさせてくれるところにあるのはわかる。
この一点においてもフェルメールは天才だと思うし、
素人の私は、ゴッホやピカソよりも天才だと思える。
再生音にないのは、いったいなんなのか。
五味先生は上のように書かれている。
納得できるけれど、なにかすこし違うようにも、これを読んだとき、
もう20年以上前になるが、その時からそういう思いが続いている。
再生音にないものをはっきりといえるようになったとき、
大きく一歩前進する、といってもよいだろう。
家族の犠牲の上で成り立っていた──、そういうふうに五味先生のオーディオを捉えている人がいる。
そんなことはない。
亡くなられた後に読売新聞社から出た「いい音いい音楽」に収められている
五味由玞子氏の「父と音楽」を読んでほしい。
いくつか書き写しておく。
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夢中になると、父は一晩中でも音楽を鳴らしている。母と私は、真夜中、どんなに大きな音で鳴っていようと、目を覚ますことはない。時折り今でも、父の部屋で音楽をかけるのだが、不思議と私はよく、絨毯の上にころりと横になりねむってしまう。たとえようのない安らぎがそこにはある。そこには父がいる。
母は音楽を聴いているときの父がいちばん好きだという。
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父が音いじりをするとき、また、テープを編集するときは、たいがい、だぼだぼのパジャマに母お手製の毛糸で編んだ足袋。冬には、駱駝色のカーディガンを羽織り、腰紐を締め、木樵のおじさんのような恰好で、蓬髪おかまいなく、胡坐をかいて一心に、テープを切ってつないだり、コードを差し換えたりしている。短気のせいか、無器用なのか、うまくいかないとよくヒステリーをおこし、ウォーッとか、エーイといった奇声が居間に聞こえてくる。すると、私と母は、またやっている、と目を見合わせほほえむ。試行錯誤の結果、気に入った音がでたときは、それはもう大喜びで、音楽にのって、親愛なるタンノイの前で踊っている。たまらなく幸福そうな表情で、そんな顔が私はいちばん好きであった。
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父は、ひとくちに言ってしまえば、純真な音キチである。いい音を求め、音楽を愛した一人の青年である。私はこの父の娘として生まれて本当に幸福であった。心からの感謝を献げたい。そして、これからも、すばらしい音楽を心をこめて聴いてゆきたい。音楽は、なにものにもかえがたい父の遺産なのだから。
五味康祐氏の「五味オーディオ教室」で、
「五味オーディオ教室」が、私にとって最初のオーディオの本であり、
この本と最初に出合ったこと、原点となったことは、
とても幸運だったと、いまでも思っている。
買ってきたその日から、毎日読んだ。
学校に持っていては休み時間に読み、
帰宅してからも、ずーっと読む。
何回も何回も頭から最後まで読み返して、
また興味深いところだけを、これまた何回も読み直して、
何度読んだかは、もうわからないくらい読み返した。
何度も読みながら、
当時ステレオを持っていなかった私は、この本を読むことで、
オーディオの本当の音は、こういうものなんだ、 と勝手に想像(妄想)したものである。
いくつも強烈に印象にのこっている言葉がある。
そのなかのひとつが、
「いま、空気が無形のピアノを、ヴァイオリンを、フルートを鳴らす。
これこそは真にレコード音楽というものであろう」のフレーズ。
空気が無形のピアノを目の前に形作って、
そのピアノから音(音楽)が響いてくる──、
中学二年の私は、それがオーディオの在りかただと思い込む。
しかし、五味先生は、
「実際に、空気全体が(キャビネットや、
ましてスピーカーが、ではない)楽器を鳴らすのを
私はいまだかつて聴いたことがない」とも書かれている。
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2005年5月19日、菅野先生のリスニングルーム。
菅野先生が「第三世代」と呼ばれている
ジャーマン・フィジックスのDDDユニットを中心としたシステムで、
プレトニョフのピアノ(シューマンの交響的練習曲)で、
「五味オーディオ教室」を初めて読んだときから29年、
「空気が無形のピアノを鳴らす」のを、 はじめて耳にした。
そういうとき必ず現われてくるのが、上っ面だけで、否定的なことを書く人だ。
書いている内容が古い、と書く。
でも、そういう人たちが言っているのは、おふたりの文章に登場するオーディオ機器が古いということにしかすぎない。私にいわせれば、内容が古いわけではない。
それで役に立たない、と書く。なぜ、こうも表面的なのか。
そして、功罪がある、とも書く。
その人たちに言いたい。毒にも薬にもならない文章を読んで、どこが楽しいのか、と。
功罪があるのは、なにかを残してきたからである。だから、功も罪もある。
功も罪もない人に対して、関心をもてる人たちがうらやましい。
読む人によっては、おふたりの文章は、薬になり、毒になろう。
同じ人にとっても、同じ文章が、時には薬なり、毒になろう。
それでいいと思う。
だからこそ、繰り返し読むのである。
これも言っておきたい。
「けっこう間違いが書いてあるだろう」という声も聞く。
たしかに、とくに五味先生の文章には、すこしばかり間違いが書いてある。
しかし、あくまでも間違いであり、嘘でない。
間違いは書かないけれど、嘘を書く人の文章と、どちらを信じるのか。
そして、五味康祐がいなければ、これは断言する、
ステレオサウンドは存在していない。
芸術新潮に連載されていた「西方の音」に共感し、感動し、勇気づけられた男が、
上京し創刊したのがステレオサウンドなのだから。
