2010年1月アーカイブ

ならばパワーアンプの入力にトランスをいれて、トランス出し・トランス受けとする方法がある。

ただこの場合でも、パワーアンプの入力にいれたトランスの2次側をどう処理するかが問題になる。

600Ω:600Ω(1対1)のトランスを使うのであれば、インピーダンス整合の問題に関しては、
同じことのくり返しになるし、2次側のインピーダンスが10kΩ程度のものを使うという手もあるが、
これですっきり解決というわけではない。

それにトランス・トランスと重なると、互いの巻線同士の共振を抑えるために、
レベルコントロール機能が他にあっても、数dB程度のアッテネーターを挿入してダンプする必要がある。

そんなふうに考えていくと、結局、トランスを受けるには、反転アンプが、
いまのところ、もっとも望ましい方法である。

さらに反転アンプの入力抵抗を取り払い、
いわゆるI/V変換回路にして、トランスの600Ω出力を受けるという手もある。

トランスを、I/V変換アンプで受けている市販のアンプは存在しないと思っていたが、
去年入手したスチューダーの回路図のいくつかを見ていっていたら、
40Wという、ラックマウント型のパワーアンプの入力部が、そうなっていたのに気がついた。
さすがスチューダー、である。
トランスをかませたコントロールアンプの出力を、どう受けるのがいいのか。

一般的にライントランスの2次側のインピーダンスは600Ω。

アンバランスのローインピーダンス出力、ハイインピーダンス入力とは異り、
トランス出力の信号はインピーダンス整合は、とうぜんのルールとなっている。

600Ωであれば、パワーアンプの入力インピーダンスを600Ωに下げるために、
入力に600Ωよりもすこし高めの抵抗を並列に取りつければ、ほぼ600Ωとなる。

ただパワーアンプの入力インピーダンスが10kΩ(この場合も、入力に並列に10kΩの抵抗がとりつけてある)だとして、
合成値が600Ωになるには、640Ωの抵抗が必要になる。

640Ωの抵抗と10kΩの抵抗は、約15:1。つまりラインケーブルを流れてきた電流の大半は、
640Ωの抵抗を通ることになる。
10kΩの抵抗を通る電流は、その1/15と少ない。

パワーアンプの入力に必要なのは電圧であって、電力ではないから、
電流の多くが、640Ωの抵抗を通ったところで問題はない、といえば、理屈の上では、実際にそうだ。

とはいえ、精神衛生上はなんとなくすっきりしないし、
単に抵抗でターミネイトしただけでは、音もかんばしくないことが多い。
ステレオサウンドに勤めていたとき、通勤に使っていた電車は丸ノ内線と日比谷線だった。

1月11日、その日比谷線に乗っている夢をみた。当時のように、霞が関駅で、日比谷線に乗り換えている。
なぜか車内はがらがらに空いていて、ふっととなりをみたら、長島先生が坐っておられた。

一言「こんなところにいていいのか!」

「こんなところ」がどこを指しているのかは、夢の中だけにすぐにわかった。
そこだけにとどまるな、という意味だったと、夢の中で感じていた。

強烈だった、ハッとして目が覚め、たしかにそうだ、と思った。

だから、この1年は「とどまらず」、である。
優れたオーディオ機器ほど、誤った使いこなしを積み重ねていくと、
泥濘は広く深くなり、ひどい音で鳴るだけでなく、音楽を変質させてしまう。

2007年のA社の音は、まさにそうだったのではないか。

誰が調整したのかははっきりとしない。
だが、少なくとも責任者であるB氏は、その音にOKを出したことは間違いないだろう。
自社のブースの音を、開場前に確認しない責任者はいないはずだし、
もし、満足できるだけの音がでていなければ、B氏が調整される(された)はずだ。

少なくともC氏の話では、使いこなしに関しては、B氏は積極的に取り組まれている人なのだから。

私は、少なくとも2007年の音は、B氏が調整されたのだと思っている。

昨年、B氏が調整された音(本人の装置ではなく、別の人の装置ではあるが)を、
耳の信用できる人(C氏ではない)が聴いて、その感想をきかせてくれた。
その音の印象が、2007年のときの印象に通じるものがあるから、そう判断したわけだ。
「有機的な体系化」には、理性、感性、知性といったものが必要だろう。
それ以上に求められているのが「聴く耳」の確かさであることはいうまでもない。
科学を騙るオーディオ関係のウェブサイトに掲載されている文章や、
掲示板で、ケーブルや置き方で音は変化しない、と決めつけている人たちの根拠のひとつに、
あるひとつの要素だけを取りあげて、
その要素が音に与える影響は人間の検知領域よりも下のレベルだから、音の違いはわからない、というものがある。

人間の検知領域は、人によってそうとうに異っていても不思議ではない。
まず、そのことを無視して、平均的なレベルの話をもってきて、決めつける滑稽さがある。

そして、科学的に捉えようとしている人でも、
ひとつの要素単独の影響にしか触れようとしない不十分さがある。つまり徹底していない。

私と同年代、上の世代にとって有吉佐和子氏の「複合汚染」は衝撃的だった。
複数の毒性物質が、相加・相乗作用によって、単独の場合に人間に与える影響の質、
そしてその量が著しく変化するということを、この本によって知らされた。

それぞれの物質の安全基準は、あくまでも単独の場合であって、他の物質と結びつくことで、
ほんのわずかな量でも、思わぬ被害を及ぼす可能性があるわけだ。

オーディオも、複合要素、相加・相乗作用を考慮して当然であるべきなのに、
上述したように、単独の要素のみで語られる(騙られる)ことが多い。

これが「科学」だろうか。もし「科学」としたら、前時代の科学でしかない。
「オーディオの科学」というウェブサイトがある。
志賀氏の個人サイトで、オーディオの技術的な事柄について、多岐にわたって解説されている、このサイトを、
もちろん否定はしないけれども、だからといって、誰かにすすめるようなことはしない。

「オーディオの科学」に書かれていることをすべて暗記しても、
それだけでは、いつまでたっても「オーディオの知識」は身につかない。

「オーディオの科学」に書かれていることは、志賀氏にとっての事実、であるからだ。

なにも「オーディオの科学」だけではない。
オーディオの技術書をどれだけ読んで、頭に叩き込んでも同じことだ。

オーディオについて詳細にあらゆることを知っているだけでは、ダメだということに気がついてほしい。
「オーディオの知識」として成立させるためには、「有機的な体系化」を自分自身で行なう必要がある。

これができなければ、いつまでたっても、知っている事柄がただ増えるだけで、
「オーディオの知識」は欠如したままだ。

そして「知識」がなければ、見識はもちようがない。
仕事で、老人ホームに行ってきた。

ほとんどのところで、居室のテレビは液晶タイプになり、
食堂やホールの広いところに置いてあるテレビも、薄型のものに替えられている。

そういうところに行くたびに感じるのは、薄型テレビの音の悪さと、
入居者の人たちのテレビを見ているときの表情がなくなりつつあることの関係性である。

数年前まではほとんどのところで、ブラウン管タイプのテレビで、音は良くはないものの、
音声は、まあはっきりと聴きとれていた。

いまの薄型テレビは音量だけは出ていても、もう何を話しているのか、少し離れると、
とくに広い空間のところでは聴き取り難い。

こんな不明瞭な音で、高齢の入居者の人たちは、テレビの音声が聴きとれているのか。
だからだろう、テレビを見ている、というよりも、ただ眺めているだけ、という印象を受けてしまう。

以前は、テレビの内容に対して、もっと反応があったはず、と私は記憶している。
何を話しているのかわからなければ、テレビを見ていてもつまらない。

その音の悪い薄型テレビは、日本の大手企業がつくっているモノだ。
はじめて聞くようなブランドのものではない。

おそらく、それらの製品は、ホームシアター関係の雑誌では、そこそこの評価を得ているであろう、
そういうランクのものである。
ホームシアター関係の評論家は、そこそこ褒めているのだろう......。

施設を管理している側は、いいテレビを導入した、と思っているはず。
なのに......、である。

入居者の人たちに必要なのは、評判の薄型のものではなく、人の声がはっきりと聴きとれるテレビのはずだ。
そう、ごくごく一部のひとを除いて、オーディオ評論家の大半は、
メーカー、輸入代理店の代弁者(広報マン)でもなく、劣化した復唱者でしかないのではないか。

なぜ、そうなってしまったのか。

断言する、「オーディオの知識」の欠如だ。
アンプ専業メーカーであったクレルが、スピーカーシステムを手がけたように、
パス・ラボも、またスピーカーシステムを手がけている。

パス・ラボの主宰者、ネルソン・パスは、自身の最初の会社スレッショルドを創立するまでは、
アメリカ・サクラメントにあったスピーカーメーカー、ESSにつとめている。

ESSは、オスカー・ハイル開発のハイルドライバーを搭載したモデルをつくっていた会社で、
パスは、ESSの後援を受けて大学に通っていた、とインタビューで答えている。

パスのESSでの仕事は、ネットワークの設計をやっていたとのことだが、
会社にとっては、トラブルメーカーと思われていた、と語っている。

パスは新しいことをやりたくて、製品を改良しようとしていたことが、会社の経営陣からは、
よけいなことだと思われていたらしい。
だから、大学卒業と同時に、辞めてくれ、といわれ、ESSを離れている。

このESS時代に同僚だったのが、一緒にスレッショルドを創立したメンバーの一人、
グラフィック・デザイナーのルネ・ベズネである。

スレッショルドの社名は、ベズネが、ESSで働いていたときに、思いついたものだそうだ。
スピーカーのセッティングをいいかげんにしたまでは、幸運がいくつも重ならないかぎりは、
そうそういい響きを、そのスピーカーから抽き出すことはできない。

けれど、聴き馴染んでいるベートーヴェンの音楽が、誰の曲なのか、一瞬わからなくなるほど、
音楽を歪めてしまうような鳴り方には、ならない。

いいかげんなセッティングによるひどい音は、そういう類の音ではない。

2007年に聴いた、あのひどい音は、あきらかに「調整後」の音であったはずだ。
この項の(その7)に書いたことに、話を戻そう。

じつは、このブースの音は、2007年だけではない、他の年も、ひどい音を出していた。
その6)や(その7)を書いてしばらくして、「A社って、○○でしょ」と、友人から言われた。
その通りだったから、隠しもしなかったが、
私だけでなく、A社のブースの音をひどいと感じていた人はいたわけで、それはなにも彼一人だけでなく、
私のまわりには、少なからず、同じように感じている人がいる。

それが、2009年では、それまでのひどすぎる音が嘘のようになくなり、
細かいことを言えば、もちろん不満点はあるものの、音楽が歪められることなく、まともな音が鳴っていた。

ある人からの情報によれば、昨年は、スピーカーの位置出しに、かなり時間をかけて行なっていた、ときいた。
ということは、一昨年までとは、かなり適当に、こんなところでいいよ、という感じでやっていたことになる。

ふざけた話だ、と怒る前に、もう一度、2007年の、
コリン・デイヴィスの「コリオラン序曲」の鳴りかたの変質ぶりを思い出してみると、
あの音のひどさは、スピーカーのセッティングのいいかげんさが原因ではないはずだ。
見知らぬ方からのフォローがあったら、ここに書こうと決めていましたので、
お知らせしておきます。今年から「つぶやき」しています。

いちおう毎日つぶやいています。
といっても、このブログと同じように、帰宅後につぶやいていますので、
一言ブログみたいな感じになりつつあります。
瀬川先生に足りなかったものがもうひとつあるとすれば、
「インターナショナル・サウンド」の前に、
岡先生の発言にあるように「アメリカ製の」、もしくはアメリカ西海岸製の」、または「JBL製の」と、
ひとこと、つけ加えられることであろう。

グローバルとインターナショナルの違いは、
「故郷は?」ときかれたときに、
「日本・東京」とか「カナダ・トロント」とこたえるのがインターナショナルであって、
「お母さんのお腹の中」とこたえるのがグローバルだ、と私は思っている。
仮に欠席裁判だとしよう。
29年経ったいま、「グローバル」という言葉が頻繁に使われるようになったいま、
「インターナショナル・サウンド」という表現は、瀬川先生も「不用意に使った」とされているが、
むしろ正しい使われ方だ、と私は受けとめている。

もし「グローバル・サウンド」と言われていたら、いまの私は、反論しているだろう。

瀬川先生は、他の方々よりも、音と風土、音と世代、音と技術について、深く考えられていた。
だから、あの場面で「インターナショナル・サウンド」という言葉を、思わず使われたのだろう。
瀬川先生に足りなかったのは、「インターナショナル・サウンド」の言葉の定義をする時間だったのだ。
思慮深さ、では、決してない。
瀬川先生が、「インターナショナル・サウンド」という言葉を使われた、29年前、
私は「グローバル」という言葉を知らなかった。
「グローバル」という言葉を、目にすることも、ほとんどなかった(はずだ)。

いま「グローバル」という言葉を目にしない、耳にしない日はないというぐらい、の使われ方だが、
「グローバル・サウンド」と「インターナショナル・サウンド」、このふたつの違いについて考えてみてほしい。

ステレオサウンド 60号の、瀬川先生抜きの、まとめの座談会は、
欠席裁判のようで不愉快だ、と捉えられている方も、少なくないようである。
インターネット上でも、何度か、そういう発言を読んだことがある。

早瀬さんも、「やり場のない憤り」を感じたと、つい最近書かれている。

私は、というと、当時、そんなふうには受けとめていなかった。
いまも、そうは受けとめていない。

たしかに、菅野先生の発言を、ややきつい表現とは感じたものの、瀬川先生の談話は掲載されていたし、
このとき、瀬川先生が帰らぬ人となられるなんて、まったく思っていなかったため、
次号(61号)のヨーロピアン・サウンドで、きっとKEFのスピーカーのことも、
思わず「インターナショナル・サウンド」と言われるのではないか、
そして、「インターナショナル・サウンド」について、
菅野先生と論争をされるであろう、と思っていたし、期待していたからだ。
2405ほどではないが、私の経験では、JBLのユニットは、総じてコーン型ユニットよりも、
ドライバーユニットに、能率差はわりと顕著なことである。

ステレオサウンドの試聴室にあった4344でも、レベルコントロールを追い込んでいくと、
左右で、ミッドハイ(2421)のレベル差が、1dBほどあった。

たとえば4343(4344)の例でいえば、ミッドバスのユニットの能率の差は、左右チャンネルでないとして、
レベルコントロールの0dBの位置で、ミッドハイ(2420もしくは2421)の能率の差があったとしたら、
わずかではあるが、クロスオーバー周波数が左右チャンネルで異ることになる。
単にミッドハイのレベルがすこし高いだけではない。

もちろん2420の能率の差があったところで、
ミッドハイのローカットの周波数はネットワークによって決まるので一定だが、
カットオフ周波数・イコール・クロスオーバー周波数ではない。

ミッドハイのレベルが高くなると、ミッドバスとのクロスオーバー周波数は、すこし下の周波数に移動する。

JBLのマルゴリスは、ステレオサウンド 51号で、レベルコントロールについて、
「アンプのトーンコントロールとは違いますから、これを動かしたからといって歪が増えたりするわけではありません。十分レベルコントロールを活用して、それぞれの部屋に合ったレベルバランスに調整していただきたいと思います。」
と語っている。
「肉体のない音」は、「音は人なり」とともに、私のオーディオのはじまり、といっていい。

たびたび書いているように、五味先生の「五味オーディオ教室」が、
最初に手にし、もっともくり返し読んだオーディオの本である。

この本の最初に出てくるのが、いわゆる「肉体のない音」について、である。
「その発言はどこまでもメーカー、メディアの代弁者としてしか見られなくなってしまったことも、
活字離れの原因となっているように思えてならない。」
と早瀬さんは、オーディオ評論家について書かれている。

オーディオ評論家と名のって仕事をしている人、つまりお金を稼いでいる人たちは、
オーディオ雑誌を手に取って見れば、いったい何人いるのだろうか、と思う。

他に仕事をもちながら、オーディオ評論と、一般的には呼ばれている仕事をしている人もいるだろうし、
専業オーディオ評論家の人のほうが、実際に多いのかもしれない。
ホームシアターに軸足を置いている人たちは、どちらなのだろう?

資本主義というよりも、商業主義の世の中では、オーディオ評論家と呼ばれている人、名のっている人が、
メーカーや輸入代理店の代弁者──すこしきつい表現をすれば広報マン──としてしか機能しなくなっても、
それを全面的に否定する気は、じつはない。

言いたいのは、代弁者(広報マン)として、実は機能していないのではないか、という印象を、
私はもっているということ。
「肉体のない音」といえば、3年前にリリースされたグールドの1955年のゴールドベルグ変奏曲を、
ヤマハの、まったく新しい自動演奏ピアノを使って再録音したSACDのことを、
誰しも頭に浮かべるのではないだろうか。

これこそ「肉体のない音」といえるものであるはずで、このディスクが発売されることを知ったとき、
「肉体のない音」とは、どういうものか、この耳で、少なくとも、そのひとつの例を確かめることができると、
そういう気持が先立っていた。

re-performance、と、この自動演奏ピアノの仕組みをつくりあげた会社は、そう呼んでいる。

発売後、すぐに購入した。いわば、変な期待をもちながら、音が鳴りだすのを待った。
鳴った、「グールドだ!」と、当り前すぎることを、すぐに思った。

ピアノのメーカーも、録音方式も、いろんなことが大きく違うにも関わらず、
「グールドだ!」と認識してしまったことに、すこし拍子抜けするとともに、
すこしばかり驚いてしまった。

これはほんとうに「肉体のない音」なのか。
左右のスピーカーのあいだに、空気の密度が急激に高まって、硬い、見えない壁ができ、
それをこれまた、異常に硬いもので叩いた、もしくは貫いた結果の音、と、
ここまで書いて思い当ったのが、ソニックブームである。

飛行機が音速を超えるときに発生する衝撃波に近いであろう、そんな音、
つまりアコースティック楽器では、いかなる楽器をもってこようとも、
こんな音はとうてい出せないだろう、といった低音が伝わってきた。

いままでいくつものスピーカーを聴いていたが、それらのなかで、同じCDをかけて、同じアンプで鳴らしても、
こんな低音を出せるスピーカーは、おそらくないだろう、とそう思うぐらいの音で、
その意味では、この一点のみにおいて、他のいかなるスピーカーよりも優れている、といえるのかもしれない。

けれど、その低音が鳴ったのは、わずか1、2秒のことである。
たしかに凄いとは思った。が、ただそれだけのことである。

衝撃波のような低音がはいっているCDそのものにまったく興味がない。
だから、そのCDがどんなにすごい音で鳴ろうとも、
グールドをはじめとする、私が聴きたい音楽のCDが、奇妙な異和感をまとって鳴るのだから、
その非常に高価なスピーカーを、欲しくなることは絶対にない。
ただ、同時に、多少の反省が、そこにはあると思う。というのは「ステレオサウンド」をとおして、メーカーの製品作りの姿勢にわれわれなりの提示を行なってきたし、それをメーカー側が受け入れたということはいえるでしょう。ただし、それをあまり過大に考えてはいけないようにも想うんですよ。それほど直接的な影響は及ぼしていないのではないのか。
 それからもうひとつ、新製品をはじめとするオーディオの最新情報が、創刊号当時にくらべて、一般のオーディオファンのごく身近に氾濫していて、だれもがかんたんに入手できる時代になったということも、これからのオーディオ・ジャーナリズムのありかたを考えるうえで、忘れてはならないと思うんです。
(中略)そういう状況になっているから、もちろんこれからは「ステレオサウンド」だけの問題ではなくて、オーディオ・ジャーナリズム全体の問題ですけれども、これからの試聴テスト、それから新製品紹介といったものは、より詳細な、より深い内容のものにしないと、読者つまりユーザーから、ソッポを向かれることになりかねないと思うんですよ。その意味で、今後の「ステレオサウンド」のテストは、いままでの実績にとどまらず、ますます内容を濃くしていってほしい、そう思います。
オーディオ界は、ここ数年、予想ほどの伸長をみせていません。そのことを、いま業界は深刻に受け止めているわけだけれど、オーディオ・ジャーナリズムの世界にも、そろそろ同じような傾向がみられるのではないかという気がするんです。それだけに、ユーザーにもういちど「ステレオサウンド」を熱っぽく読んでもらうためには、これを機に、われわれを含めて、関係者は考えてみる必要があるのではないでしょうか。
     *
瀬川先生が、ステレオサウンド 50号の特集記事
「ステレオサウンド誌50号の歩みからオーディオの世界をふりかえる」のなかで、語られている言葉だ。

50号は、1979年3月に出ている。
オーディオ誌の企画書といえるメモを書かれて、2年後の発言である。
これが「肉体のない音」なのかもしれない。
グールドのゴールドベルグのCDがケースに収められるのを見ながら、そんなことも思っていた。

試聴会が始まって、機械の説明とともにつぎつぎとCDが鳴らされていく。
そのなかには、グールドほどではないが、聴きなれたものもあった。
それらの鳴り方も、グールドのゴールドベルグに感じた印象と変らない。

ポップスがかかると、おっ、と感じる。いままでのCDとは違う鳴り方で、
はじめて聴くCDということもあり、それまでの異和感はとくに感じられなかった。

それほど長時間の試聴ではなかったのだが、聴いていてわかったのは、
アコースティック楽器主体の録音では、奇妙な異和感がつねにつきまとう。

ポップスも、それも電子楽器やコンピューターによる音の調整を施した録音では、
ある種の爽快感が現われてくる。

内容そのものに興味がなかったため、CDのタイトルは忘れてしまったが、
アメリカのハイエンドメーカーのあいだで、低音の鳴り方をチェックするのによく使われるというCDがかかった。

このCDだけは、まぁ、たしかにすごかった......。
奇妙なことに、聴けば聴くほど「グールドのゴールドベルグ」という確信がなくなっていく。
グールドの演奏を真似た、まったく知らない人の演奏のように聴こえてくる。

とにかく、まずピアノがヤマハのCFには、どうしても聴こえない。
アップライトピアノにしか聴こえない。

580kgの重量のあるピアノが鳴っている感じが全く、そこで鳴っていた音には感じとれなかった。
重量だけではない、アップライトピアノだから、コンサートグランドピアノとは大きさも違う。
響きがこじんまりとしていて、空間に響きが拡がっていく感じがしない。

そのためもあろうが、弾いているひとも、なんとなく細い人というより、存在感が希薄、
もしくは自動ピアノの演奏じゃなかろうか、そんなところまで妄想がいってしまう音なのだ。

グールドのゴールドベルグのCDは、回数の多さだけでなく、じつにさまざまなシステムで聴いてきた。
ステレオサウンドの試聴室で、いろんなCDプレーヤー、多種多様なスピーカーで聴いてきた。

そこで鳴っていた音は、首を傾げたくなるほど不思議な音だった。

なぜ? と思っていたら、開始時間になり、CDプレーヤーからCDが取り出され、
ケースにおさめられているときに見えたジャケットは、
やはり、というべきなのか、グールドのゴールドベルグ変奏曲のものだった。
この項の(その3)で、グールドのゴールドベルグ変奏曲なら、たいていの場所で耳にしても、
グールドの演奏だと、耳が判断する、といったことを書いた。

まぁ、よほどひどい環境でも無いかぎり、ふしぎなもので、さほど高価なスピーカーでなくても、
レコード店に置いてある程度のスピーカーから、ラジオのスピーカーであっても、
グールドの演奏だと、バッグラウンドミュージックであっても、ふしぎと耳にはいってくる。

にもかかわらず、昨年、ある試聴会で、どうして?、と考えてしまうことがあった。

開始時間の20分ほど前に会場についた。バッハのゴールドベルグ変奏曲がかかってくることは、すぐにわかった。

よさそうな位置の席を見つけて坐って、そのゴールドベルグに耳をかたむけたら、
「もしかして、グールド?」と思ってしまった。

弾き方は、あきらかにグールドの演奏に似ていると感じても、「あっ、グールドだ!」とは感じられなかった。
アデールの「フーガの技法」、2枚のCDを聴きおわったところで、拍手が鳴り、最初のときは驚いた。

ジャケットには"Live Recording" と書かれているし、ライヴ録音だと感じさせる箇所もないわけではないが、
聴き耽っていたら、そんなことは頭の中から消えていて、いきなりの拍手の音に、ハッとした。

このライヴでの聴取は、みな息を潜めて、ひとつになって聴いている。
別の場所、別の時間にいる、CDの聴き手も、いつのまにか聴取とひとつになっている、とでもいったらいいのだろうか。

拍手の音は、とうぜんだがひとつではない。あちこちから聴こえてきて、
視覚情報のあたえられていないCDの聴き手は、拍手の数の多さから、
こんなにも多くの聴き手がまわりにいたことを、はじめて知る。

この静謐さは、グールドとアデールのバッハに通底しているもののひとつであろう。
これだけではないだろう。まだなにかがあるのだろう......。それを感じとりたくて、今日もまた聴いていた。
他者からの「承認」をえやすい音のスピーカーが、あきらかにある。
しかも増えてきている。

そのことで失われつつある「もの」がある。
そして、オーディオ評論とも関係している。
「ぼくはインターナショナル・サウンドっていうのはあり得ないと思います」と岡先生は否定されている。
が、「アメリカ製のインターナショナル・サウンド」とも言われているように、全否定されているわけではない。

岡先生は、こうも言われている。
「非常にオーバーな言い方をすれば、アメリカのスピーカーの方向というものはよくも悪しくもJBLが代表していると思うんです。アメリカのスピーカーの水準はJBLがなにかをやっていくたびにステップが上がっていく。そういう感じが、ことにここ10数年していたわけです。
 JBLの行きかたというのはあくまでもテクノロジー一本槍でやっている。あそこの技術発表のデータを見ていると、ほんとうにテクノロジーのかたまりという感じもするんです。」

この発言と、瀬川先生が病室から談話で語られた
「客観的といいますか、要するにその主観的な要素が入らない物理特性のすぐれた音」、
このふたつは同じことと捉えてもいい。

だから残念なのは、全試聴が終った後の総括の座談会に、瀬川先生が出席されていないことだ。
もし瀬川先生が入院されていなかったら、インターナショナル・サウンドをめぐって、
ひじょうに興味深い議論がなされたであろう。

それは「現代スピーカー」についての議論でもあったはずだ。

瀬川先生の談話は、the Review (in the past) で公開している。
「でも、〝インターナショナル〟といってもいい音はあると思う」の、そのだ。
ステレオサウンドの60号が手もとにあるので、
瀬川先生のインターナショナルサウンドについての発言を引用しておく。
     *
これは異論があるかもしれないですけれど、きょうのテーマの〈アメリカン・サウンド〉という枠を、JBLの音には、ぼくの頭のなかでは当てはめにくい。たとえば、パラゴンとオリンパスとか、あの辺はアメリカン・サウンドだという感じがするんだけれども、ぼくの頭の中でJBLというとすぐ、4343以降のスタジオモニターが、どうしてもJBLの代表みたいにおもえちゃうんですが、しかし、これはもう〈アメリカン・サウンド〉じゃないんじゃないのか、言ってみれば〈インターナショナル・サウンド〉じゃないかという感じがするんです。この言い方にはかなり誤解をまねきやすいと思うので、後でまた補足するかもしれないけれども、とにかく、ぼくの頭の中でのアメリカン・サウンドというのは、アルテックに尽きるみたいな気がする。
 アルテックの魅力というのは(中略)、50年代から盛り返しはじめたもう一つのリッチなアメリカ、それを代表するサウンドと言える。もしJBLの4343から4345を、アメリカン・サウンドと言うならば、これは今日の最先端のアメリカン・サウンドですね。
     *
瀬川先生のインターナショナル・サウンドに対しては、
アメリカン・サウンドの試聴に参加された岡、菅野のおふたりは、異論を唱えられている。

岡先生は、4345の音を「アメリカ製のインターナショナル・サウンド」とされている。
「きれいさっぱり」という表現がある。

きれいさっぱりに洗った、という場合には、汚れの落とし忘れもなく、清潔なこと。

きれいさっぱりあきらめた、という使い方もある。
潔くあきらめて、さっぱりしている、という意味だ。

また、何もかも失ってしまったときにも、きれいさっぱり、を使うこともある。

洗濯の例のようによい意味で使われることもあれば、そうでない使い方もある。

バーンスタインのマーラーには、きれいさっぱり、という表現はまったく無縁だ。
インバルのマーラーには、きれいさっぱり、という言葉を使いたくなる、なにかを感じる。
というより、何かがたりないから、そう感じる、といったほうが正しい。

きれいさっぱりな音のアンプ、は、褒め言葉ではない。
そう受けとる人もいるかもしれないが、音の表面的な綺麗さにこだわるあまり、
なにか大事なものまで捨ててしまった音、そんな意味が含まれている。

バーンスタインの感情移入の凄まじさは、ある種のノイズなのかもしれない。
その「ノイズ」は、人によっては、音の汚れとして、または、きわどい音として受けとめるのか......。

バーンスタインのマーラーの第5番を「チンドンヤみたい」と受けとめた編集者にとっては、
バーンスタインの発する「ノイズ」は、単なる汚れにしかすぎなかったのか。
だから、その種の「ノイズ」をきれいさっぱりと洗い流したインバルのマーラーを選ぶのか......。

その一方で、きれいさっぱりなものに物足りなさを感じる者も、またいる。
伊藤先生製作の349Aのアンプには整流管は5AR4(GZ34)がささっていた。
それをウェスターンの274Bに差し換える。
出力管の349Aよりも、整流管のほうが大きく、堂々としている。
見た目のバランスの良さはくずれてしまったが、音の美しさは、はっきりと倍加した。

しかも音が歇んでいく様の美しさが、とくにきわだっていたことを、思い出したのだ。
あの音が欲しいのだ。

整流管として内部抵抗が低いのは5AR4のほうで、274Bは高い部類である。
つまり電圧降下が、内部抵抗の高い分だけ増えることになる。
つまりレギュレーションが悪くなる。にもかかわらず、音の美しさは増していく。

もちろん内部抵抗の違いだけでなく、電極の材質、作りの違い、ガラスの違いもあるだろう。
そういったもろもろのことが有機的に絡みあっての音の違いではあるとわかってはいるが、
その音の違いを思いだしながら、伊藤先生製作の349Aのアンプの回路図をもういちど見直していくと、
1kΩの抵抗の存在が、音が歇むときの美しさに、実は密接に関わっているような気がしてきた。

そうなってくると、いちど、伊藤先生の回路通りに、
ようするにウェストレックスのA10の回路を元にしたものをつくってみようと考えを改めた。
4350でふしぎなのは、ミッドバスとミッドハイのレベルコントロールがない点である。

ステレオサウンド 51号に「♯4343研究」という連載の1回目が載っている。
JBLプロフェッショナル・ディヴィジョンのゲーリー・マルゴリス氏とブルース・スクローガン氏に、
ステレオサウンド編集部がきき手として、4343のセッティングとチューニングの説明している。

そこでマルゴリスは、スピーカーのレベルコントロールついて、
「リスニングルーム個々によって全く音響条件が違うわけですから、
それぞれの部屋で最適なバランスが得られるように、充分に活用してください。」と語っている。
さらに「スピーカーユニット自体も、生産上の能率差はプラス・マイナス1dBが許容されていますから、
最大2dBの能率差が出ることもあるわけです」と続けている。

あくまでも最大2dBの能率差ということだから、運がよければ、ほとんど差がないこともあるだろうし、
まあ、1dBぐらいは違っているだろう、と覚悟しておいたほうがいい(と私は思っている)。

とくに能率差がわりと多く発生しているのが、トゥイーターの2405である。

この記事中にある、マルゴリス調整後の4343のレベルコントロールの写真を見ると、
2405のレベルは、左右でかなり差があることがわかる。
アデールによる「フーガの技法」の最初の一音、そしてもう一音が鳴ったとき、
「グールドだ!」と感じてしまった。

グールドのディスクは、反復してよく聴いている。
だから、外出先で、レコード店やそれ意外の場所でも、グールドの演奏がかかると、
耳がすぐに反応して「あっ、グールドだ!」とわかる。

さすがにグールドののこしたすべてのディスクに対して、なわけはないが、
それでも新旧のゴールドベルグ変奏曲、平均率クラヴィーア、パルティータなどは、すぐに反応している。

それはしっかりと耳に刻まれているからこそ反応できるのに、
はじめて聴くアリス・アデールの「フーガの技法」に反応したのはなぜだろう?

聴き進むにつれて、グールドがもしピアノで再録音していたら、
まさに、いま聴いている演奏にきわめて近い、というよりも、そっくりになったのかもしれない。
そんな気もしてきた。

アリス・アデールが、グールドの演奏を真似している、そんなことではない。
真似しようとしてもできるものではないだろうし、もしそっくりの真似が可能だとしても、
そういう演奏に、耳が「グールドだ!」と反応することはない。

いっておく、アリス・アデールの「フーガの技法」は素晴らしい。
グールドは、1962年に、楽器指定のない「フーガの技法」を、オルガンでのこしている。
残念なのは、第1集のみだけということ。

グールドが第2集まで録音していてくれたら......、と思うだけでなく、
もしピアノで演奏していたら......、とも思う。

いくら思ったところで、どうなるものではないとわかってはいるが、やはり、つい思う。
もちろん四六時中思っているわけではないが、なにかのきっかけがで、しばらくその想いにとらわれてしまう。

ここ数年は、実のところ、思うことはなかった。

年末から新年にかけて、バッハを中心に集中して聴いていたこともあって、
今年最初に購入したCDのなかに、「フーガの技法」をピアノで演奏したものを加えた。

アリス・アデール(Alice Ader)による「フーガの技法」だ。

自作スピーカーのごく一部の例外を除けば、そして既製のスピーカーシステムは、
ウーファーの能率がいちばん低く、それより上の帯域を受け持つユニット、
トゥイーター、スコーカーのレベルを絞り、能率を合わせている。

言いかえれば、能率の基準はウーファーにあり、
レベルコントロールの調整の基準もウーファーにある、ということだ。

つまり、いちばん低い能率のウーファーのレベルは、当然だが固定されているわけだ。

スピーカーシステムのレベル調整において、この当然すぎることを意識することは、あまりないのかもしれない。

これが、4350には、あてはまらない。

瀬川先生は、ステレオサウンドの43号に、
「使い手がよほど巧みなコントロールを加えないかぎり、
4350Aは、わめき、鳴きさけび、手のつけられないじゃじゃ馬にもなる」と書かれている。

4350のもつ、この性格は、レベルコントロール調整時の意識のなかにも潜んでいる、といえないだろうか。
東京で暮らすようになって、大晦日に除夜の鐘が聞こえるところに住んだことはない。

大晦日、階下の人がいなかったので、除夜の鐘の代わりというわけでもないが、
エネスコのヴァイオリンによるバッハを、午前0時をまたぐように聴いていた。

エアコンはとめて、聴いていた。
聴いていくうちに部屋の温度は低くなっていくなかで、しんみりと聴いていた。

翌日の朝、今年初めにかけた曲も、エネスコのバッハの2枚目。
つまりパルティータ第2番、ソナタ第3番、パルティータ第3番を聴いた。

なんとなく「正月はバッハだよなぁ」という気分になり、カラヤンのロ短調ミサをかけた。
EMIから出ているモノーラル盤で、フェリアーが歌うリハーサルも含まれている。

時間はあるから、マタイ受難曲を聴くことにした。ヨッフム指揮のフィリップス盤。
これで1日は、ほぼ終っていた。

2日も、やはりバッハで、グールドのデビュー盤のゴールドベルグ変奏曲から、
アルバムの発売順に聴いていこうと思い、次にベートーヴェンの第30、31、32番、
バッハの協奏曲第1番とベートーヴェンの協奏曲第2番、
バッハのパルティータ第5盤と6番、というふうに聴き続けていた。

グールドが、もうすこし生きていて、ベートーヴェンの後期のピアノソナタと、
バッハの「フーガの技法」を再録音してくれていたら......、と過去何度思ったか数えきれないくらいことを、
またくり返し思っていた。
UREIの813のネットワーク(TIME ALIGN NETWORK)は、回路図から判断するに、
ウーファー部のハイカットフィルターは、8次のベッセル型である。

ベッセル型フィルターの通過帯域内の群遅延特性はフラットであると前に書いているが、
そううまくウーファーの音だけに遅延がかかって、トゥイーターからの音と時間的な整合がとれているのか、
と疑われる方もおられるだろう。
メーカーの言い分だけでは信じられない、コイルとコンデンサーだけのネットワークで、
タイムアライメントをとることが、ほんとうに可能なのか、と疑問を持たれても不思議ではない。

ステレオサウンドの46号の特集記事はモニタースピーカーだった。
その次の47号で、46号で登場したモニタースピーカーを、三菱電機郡山製作所にての測定結果が載っている。

アルテックの620A、JBLの4343、4333A、ダイヤトーンのMonitor1、キャバスのブリガンタン、
K+Hの092、OL10、ヤマハのNS1000M、そしてUREIの813の、
無響室と2π空間での周波数特性、ウーファー、バスレフポート、パッシヴラジエーターに対する近接周波数特性、
超高域周波数特性、高次高調波歪特性、混変調歪特性と混変調歪差周波掃引、
インパルスレスポンス、群遅延特性、エネルギータイムレスポンス、累積スペクトラム、
裏板振動特性、デジタル計測による混変調歪が載っている。
ここで、マークレビンソンのラインナップに、ML4がなかったことを書いた。

なかったわけでないことが、今日判明した。
さきほど坂野さんから、ステレオサウンドのバックナンバーが、まとまって送られてきた。
そのなかに50号が含まれていて、編集部原稿による「マーク・レビンソンのニューライン完成間近」という記事がある。

ここにML4の試作品の写真と説明が載っている。

ML4は、大幅に値上がりしたML1のローコスト版を望む声がアメリカでは強く、
それに応える形で開発されたもの、らしい。
モジュール構成ではなく、電源部も内蔵されている、とある。

フロントパネルは、ML1と同じように中央にMark Levinsonの、例のロゴがあり、
その左右にツマミが3個ずつ左右対称に配置されている。

電源部内蔵とあって、パネル高もML1よりもはありそうな感じだ。
これがML10の原型か、は、はっきりとしない。

この記事中では、ML10はKEFのModel 105をベースに、
ネットワークと内部配線材(おそらく銀線使用か)を中心にモディファイされたもの、となっている。

さらにML7の型番もあり、これはのちに登場するコントロールアンプのことではなく、
ML5の姉妹機にあたるもので、
ML5がスチューダーのA80のトランスポート採用であるのにたいし、
このときのML7は、ルボックスのB77のトランスポートを使い、
マークレビンソン製の録音・再生アンプを組み込んだもの。

今日届いたステレオサウンドのバックナンバーのおかげで、
書くことを控えていた、いくつかの項目の続きが書けるようになった。
the Review (in the past) の入力に関しても、
そろそろ手もとにあるステレオサウンドのバックナンバーが足りなくなってきたころだっただけに、助かっている。
4ウェイの4341、4343、4344、4345のレベルコントロールは3つ。
3ウェイの4333は2つ、2ウェイの4320、4331は1つ。

当然のことだが、低域(ウーファー)以外のすべての帯域に、
それぞれレベルコントロールがあり、ウーファーを基準に、それぞれのユニットのレベルは変えられる。

4355はバイアンプ駆動だから、低域とそれより上の3つの帯域については、
チャンネルデバイダーのレベルセットでコントロールできる。
そのうえで、ミッドハイとトゥイーターは、4355のレベルコントロールを使えば、
それぞれのユニットのレベルは変えられる。

4350のレベルコントロールはトゥイーターの2405用であって、
つまりチャンネルデバイダーでレベルコントロールしようと、
ミッドバスとミッドハイのふたつのレベルは固定されている。

2202Aと2440の組合せによる2ウェイ・スピーカーが4350の中心にあり、
この2ウェイに関しては、ユーザーはいっさい触れられない設計になっている。
いじることが許されているのは、ウーファーとトゥイーターの、この2ウェイに対する相対的なレベルである。
4350と4355の違いは、ネットワークの回路図を見なくても外観からでもわかることだが、
改めて回路図を比較していて、決定的な違いを思い出した。

4350は、ウーファーが2230(4350Aは2231A)、ミッドバスは2202A、
ミッドハイが2440とホーン2311と音響レンズ2308の組合せ、トゥイーターが2405。バスレフポートは6つ。

4355は、ウーファーが2235H、ミッドバスが2202H、ミッドハイは2241と2311+2308の組合せ、
トゥイーターは2405で、バスレフポートは2つ。

ユニットそのものに大きな変更はない。
外観上の変更で目につくのはバスレフポートの数の違いだが、
それにひっそりと隠れているのが、レベルコントロールの数の違いである。

4350は1つ、4355は2つ。
数の違いとしては「1」だから、それほど大きな違いとは受けとれないかもしれないが、
4350、4355ともにバイアンプ駆動であるから、大きな違いである。
以前書いているが、4343を設計したのは、パット・エヴァリッジ。
彼は、4350、4341(4340)も手がけていることは判っているが、4343以降はJBLを離れてしまったようだ。

4343のネットワーク3143、4350用の3107、4341用の3141
4341のバイアンプ駆動モデル4340用の3140を比較してもらいたい。

まず気がつくのは、3143と3141は、ほとんど同じものだということである。
違いは、4343は切替スイッチにより、ネットワーク駆動とバイアンプ駆動が可能になっている。
そのためのスイッチが加えられたのが4343用の3143で、回路構成、部品の定数は、3143と3141は同一である。

もっとも4341と4343は使用ユニットも共通しているため、ネットワークが同じでも不思議はない。

バイアンプ駆動が前提の4350と4340のネットワークを比較すると、あることに気がつく。
そのことは、4350と4355との、あまり話題になることはないのが不思議だが、決定的な違いともいえることがらだ。
毎日書くということと、毎日ブログを公開していくということは、同じことではない。

あるテーマについて書くとき、毎日少しずつ書いては公開していくやり方より、
一度に集中して、まとまった量を書きあげて、それを分割して日々公開していく方が、ずっと楽である。

書き溜めておけるし、毎日書かずにすむ。

いまのやり方をしていると、ときどき、「思わず」書いてしまうことがある。
それをそのまま公開して、話がどんどん逸れてしまい、本来のテーマに戻れるのか、と、
自分でも心配になることがある。

「思わず」書いてしまったことは、直後にはたいてい、書かなければよかったかも......、と思うこともある。
それでも、書き進めていくうちに、自分で書いておきながら思わぬ展開になり、
「思わず」書いたことが結果的にはよかったとも思うことがあるため、いまのやり方を続けている。

「思いつき」や「思いこみ」で書くことは、さけるべきである。
けれど、「思わず」という感覚は、意外に大切なものなのかもしれない。
部屋の広さ、最大音圧レベルが特定される条件では、ホーン型でも6dB/oct.での使用は、
充分ありだと、個人的に考えているが、
使用条件が千差万別で、どういう使われ方をされるのかわからない、市販品をつくる側にたてば、
やはりホーン型スピーカーには、6dB/oct.のネットワークは採用しない。

エド・メイが4320のネットワーク3110において、やっていることは至極当然のこと。
彼の凄さは、同時期の4310において、まったく正反対ともいえる、
これ以上部品点数を削ることのできないネットワークを設計し、
4320も4310も、要求通りのものをつくりあげていることである。
この発想の柔軟さは、見事である。

さらに4310のネットワークをつくることもできれば、
マランツに移ってからは、ネットワークによる位相補正まで行なっている。

ひとつの手法に固執することなく、目的・要求に応じて、最適と判断される手法を使い分けてこそ、
オーディオエンジニアリングのあるべき姿といえよう。
4333を、4310(4311)のようなコンデンサーだけによるローカットフィルターによるネットワークで鳴らす場合、
もしくはコイルを使ったハイカットフィルターも使い、いわゆる通常の6dB/oct.のネットワークにしたとする。

ゆるやか減衰特性で、クロスオーバー周波数が同じあれば、トゥイーター(ドライバー)には、
かなり下の帯域まで、そこそこなレベルで入力されることになる。
こう書いていくと、すぐにでも破損しそうで、音量もかなり小さめになると想像されるだろう。

JBLのホーン型ユニットを使ったスタジオモニターを6dB/oct.のネットワークなり、
チャンネルデバイダーを用いて鳴らしたとして、どこまでの音量までいえるのか。

もう20年近く前の話になるが、早瀬さんは、4355を鳴らされていた時に、
パッシヴのチャンネルデバイダー(もちろん6dB/oct.)で、4ウェイのマルチアンプドライブを試みられている。

かなり広いリスニングルームにおいて、4355は不足ない音量まで再生できていたようだ。

爆音というレベルでの再生はおそらく無理だったろうが、その感触からすると、
10畳程度の広さの空間ならば、4ウェイでなくとも、4333でも、意外と6dB/oct.でいけるのかもしれない。

6dB/oct.のネットワークとは直接関係のない話だが、ウェストレイクのスピーカーシステムで、
JBLの2420をホーンなしで、トゥイーターとして使われていた例もある。

意外と丈夫なのかもしれないが、それでも4333や4343で6dB/oct.で鳴らされるのあれば、
注意は、12dBや18dBのネットワークとは違い、それなりに必要になってくる。
同じ時期に、同じ人間が設計したふたつのネットワーク(4310用と4320用の3110)の違いは、
そのまま4311と4320の使用目的の違いでもある。

4310は、アルテック604の音のキャラクターを模倣しようとしたものに対し、
4320は、604ユニットを搭載した612システムにとってかわろう、とJBLが開発した本格的なモニタースピーカーである。

当然中高域にはホーン型を採用している。
すべてコーン型の4310とはユニットの規模が、ウーファーのサイズをはじめ、投入されている物量が大きく異る。
システムとしての規模も、そうだ。

そして想定されるモニタリング時の音量も違いもある。

4320、受け継いだ4331、その3ウェイ仕様の4333のネットワークが、もし6dB/oct.仕様であったとすれば、
ドライバーユニットの破損が、録音スタジオの現場では相次ぐことは容易に想像できる。

いうまでもないことだが、コンプレッションドライバー型ではホーンロードがかからなくなった帯域では、
わずかの過大入力でもダイアフラム破損につながる。
コーン型ユニットのように受持ち帯域もさほど広くはない。

しかも4300シリーズでつかわれているホーンは、それほど大型のものではない。
3110は、ウーファー、トゥイーターともにスロープ特性は12dB/oct.である。

ウーファー側の信号系路には、コイルとコンデンサーが、それぞれ直列と並列にはいり、
そのあとに、10Ωの抵抗と13.5μFのコンデンサーを直列接続したものを、ウーファーに対して並列にいれている。

ホーン側の信号系路には、タップ付きのインダクター(コイル)が使われている。
BBCモニター系のネットワークにもよく使われる手法である。

高域側にホーン型を採用した場合、一般的にウーファーよりも能率が高く、
固定抵抗および連続可変抵抗を入れて、能率の合わせるわけだが、これでは損失が出て、
抵抗器からの発熱もある。

コイルの途中からいくつかのタップをもうける、この手法は、
マッキントッシュのトランジスターパワーアンプの出力に設けられているオートフォーマーと同じで、
電圧の低下だけを行ない、電流の損失はほとんどない、といわれているものだ。

各ユニットの能率合わせには好適な手法であるのだが、ひとつのタップならまだしも、
複数のタップとなると製造過程が大変となるため、JBLのスタジオモニターでも、必ずしも採用されているわけではない。
意外とうまく鳴ってくれるかもしれない。ただし音量の制約がつく。

4311は、ウーファー、スコーカー、トゥイーターすべてコーン型ユニットを採用している。
4311の前身4310は、1971年に登場している。
正確に、1968年には登場しており、4310の型番を与えられたのが、3年後である。
開発エンジニアは、のちにマランツに移り、900シリーズのスピーカー設計を主導したエド・メイである。

ステレオサウンド刊行の「JBL 60th Anniversary」によると、4310は、当時スタジオモニターとして最も多く使われていた
「アルテックの604の音のキャラクターを、小さなサイズで模倣しよう」というものであったらしい。

同時期、エド・メイは4320のネットワークも手がけている。
4320に搭載されたネットワークの型番は3110。回路図はJBLのサイトから入手できる。

4310のネットワークの回路図は不明だが、4311、その後継機の4312の回路図から推測するに、
コンデンサーによるローカットのみ、であろう。
4311のネットワーク3111の回路図には、コイルの存在がない。

ウーファーへの配線には、ネットワーク構成部品はなにもない。アンプからの信号はそのまま送り込まれる。
スコーカーとトゥイーターに、ローカット用のコンデンサーがそれぞれにひとつずつはいっているだけで、
あとはレベルコントロールが、やはりそれぞれにひとつずつ記載されているだけ。

部品点数は4つである。

同じJBLの3ウェイでも、4333となると、構成部品は多くなり、スロープ特性も違う。

4311はハイカットはユニットの特性をコントロールすることで行ない、
ローカットのみコンデンサーによる6dB/octのカットとなっている。

3ウェイである以上、4311よりも部品点数を減らすことは、スコーカーとトゥイーターの能率を、
ウーファーはまったく同じに設計すれば、レベルコントロールが省けるぐらいで、無理である。

では4333を4311のようなネットワークで鳴らすことはできないのか。
JBLの古い製品の技術的資料は、JBLのサイトから入手できる。
すべてではないが、知りたいものの多くは公開されているし、JBLが買収したUREIの資料も、ここにある。

早瀬さんが、JBLの4300シリーズのネットワークについて、その考察を書き始められている。

4300シリーズのネットワークの回路図も、上記サイトにある。
4343、4333、4341、4355、4345などの他にも、オリンパスのネットワークの回路図も、
SG520、SE400S、SE408S、SA600、SA660のマニュアルもある。

JBLプロフェッショナル・シリーズのネットワーク、3100シリーズは、下2桁の型番によって、
どのスピーカーシステムに採用されたものかが区別される。

4343用は3143、4355用は3150、4345用は3145というふうに、である。
ただしすべてのネットワークの型番が、システムの下2桁と一致しているわけではない。

4350用は3107で、4301用は3103で、それ以外のネットワークについて簡単に説明すると、
3106はクロスオーバー周波数、 8kHzで、16Ω仕様、
3110Aは、 800Hzのクロスオーバー周波数で、ウーファーは8Ω、トゥイーターは16Ω仕様、
3115Aは、500Hzで、ウーファー・8Ω、トゥイーター・16Ω仕様、
3120Aは、 1250Hzで、ウーファー・8Ω、トゥイーター・16Ω仕様、などである。

3135は、バイラジアルホーンを搭載した4435用だ。
シングルウーファーの4430用も初期のモデルは3135で、のちに61449Pに変更されている。

リストには、3111がある。
型番からわかるように、3ウェイのブックシェルフ型スタジオモニター4311用のネットワークだが、
クリックすると、3110の回路図が表示される。
3110のところをクリックすると、3110が表示されるから、リンクミスだが、
3111はブラウザーに表示されるURLの「3110」を「3111」に変えればダウンロードできる。
少なからぬ人が、「欠陥」スピーカーに惹かれるのは、エキゾティシズムへの憧れがあるようにも思う。

1970年代、スピーカーは、国による違い、風土による違いによって、はっきりとした特色があった。
アメリカでも、西海岸と東海岸のスピーカーは、はっきりと違う。
音だけでなく、技術志向においてもあきらかな違いがある。

アメリカとヨーロッパのスピーカーの音も違う。
ヨーロッパのなかでも、イギリス、フランス、ドイツでは、それぞれ異る音色をもっていた。

技術の進歩とともに、それに製造工場の集中化によっても、それは残り香となりつつあるようにも思う。

つまり異国のスピーカーのもつエキゾティシズムが希薄になっている時代だからこそ、
ひとは、違うエキゾティシズムを、無意識に求めてるようになっているのではないか。

たとえば時代の違いによるエキゾティシズム。
試聴リファレンス
Speaker  ○4343──────(メイン)
       ○BC-II/KEF 104AB(イギリスの新しいモニター系のSP)
       ○ARDEN、ALTEC 19、(やや旧タイプのフロアー型)

Amp       ○LNP-2L/SAE 2500(or 510M)

Cartridge   ○MC-20/JC-1AC、VMS-20E、SPU-GT/E、455E、4000D/III、4500Q、V15/III、EPC-100C
没個性な量産品に対するユーザーの反動、に対して
A.キットをふくめて自作、改造の記事をどう扱うか。

B.使いこなしで、いかに自分を表現するか!
 a.リスニングルーム探訪のような形で、個性的なユーザーを探す。
 b.使いこなしのちょっとしたヒントを常設記事にする。
 c.改造や自作というほど大げさでなく、既製品にほんの少し何かを加えて個性化するヒント等......。

読みもの をどう扱うか
A.随筆風の......(わりあいまじめな)
B. 具体的な製品や具体的な風潮などを例示しての論壇風の......
C.リラックスした......(やや冗談ふう、やぶにらみ風、etc.)
D.読者との意見交換、発表。(新人を発掘する場にできれば)
E.オーディオ関係者(メーカー、販売店 等)の意見......

入門記事、解説記事
◎オーディオが一般化するにつれて、ほんとうのちょっとした基礎のところのわからない人が大半を占めるようになっている。
◎見開き完結の読切連載のような形にするか......
◎常設とせず、随時、ページ数もその時に応じて、にするか......
◎オーディオをハード的に扱わず、音楽愛好家の側から、メカや電気に全く弱い人にでも理解できるような解説が必要。

製品以外の話題、ニュース、情報
 催し(メーカーのショールーム)、ディスカウントセール、録音会等......
 地方での催しでも、中央のメーカーの後援又は主催であれば紹介できる(講師、内容、日時、問合せ先)
新製品紹介を2本立てで考える。
その1は、本誌選定の形で十分にスペースをとり、解説/分析/使用感の3部からなる詳細なレポートとする。一製品あたり6〜10ページ又はそれ以上、毎月2ないし3点を扱う。(既刊のあらゆる専門誌が、スペースをせまく考えすぎる。充分な時間をかけた分析、試聴と、その結果の中味の凄い紹介、読み終って嘆能するような)
その2は、記事のニュース的な扱いで、その月の製品(アクセサリーまで含めて)すべてを網羅する。

上の2つのいずれも、その製品の位置づけを明確にするために、ライバル製品との対比(グラフ、一覧表などで整理する)、及びそのメーカーの系列の中での地位、その他の事から、十分にその意味あいを明らかにする。

選定 新製品紹介の方法
①解説、紹介/メーカーの開発意図も(受け売りでなく、スタッフが十分に消化した形で)紹介する。製品そのものを、それをみたことのない人にも十分に想像のつく程度に簡潔に具体的に解説すると共に、その製品の出現した必然性、選定した意味を明確にする。技術的な(例えば回路方式などの)解説は最小限を、細心の注意をもって扱い、電気や音響、物理、科学の基礎のない愛好家にも、よくわかるようにする。

発売時期(全国)を明記する。

②分析、測定/ありきたりの測定でなく、実用にもとづいたデーターをとる。メーカーの盲点をつく測定を常に考える。ただし、例えばアンプの出力等、量的に明確でしかも変?項目については、メーカーの発表値に偏りがないかどうかをえならずチェックする(グラフとして発表しない場合でも)。
測定データーは、その製品が製造中止になるまで保管し、ヒットした製品については、適当な時期に追跡測定をして、初期ロット品との比較を随時掲載する。
シャシー構造、エンクロージュア等、その構造、構成が性能に影響のある部分については十分に分析し、評価を加える。

③使ってみて(又は聴いてみて)/ヒアリングテスト、及びデザインや操作性、ことに実際のユーザーの部屋で、何らかの不つごうを生じないかどうか、をよく検討する。
ヒアリングテストには、組合せをいくつか変える。ライバル機(別項カコミで一覧表)との比較、位置づけ、CPを考慮した場合しない場合、等 多角的な検討を忘れぬこと。
●具体的な使いこなしについて十分にスペースをさく(ユーザー側から熱心な要望がある)
●組合せについてのヒントも加える(ユーザー側から熱心な要望がある)
●音を聴いたことのない人にも、音が聴こえるような表現に心がける

④以上の3点を、できるだけ簡潔に、しかし充分に分析の加えられた表現になるよう意を盡すこと。
○なお、冒頭に、メーカー紹介(簡潔に、メーカーの来歴と体質、オーディオ界での地位等)(カコミでも可)
○また、「(例えば)今月の用語」として、その製品で話題になった技術用語、専門用語を簡明に解説するカコミを設ける。
○文体は簡明、即物的、ベタベタした感情を入れず、客観的であるかのような印象を与えることを心がける。指摘すべき弱点を素直に指摘し、良い点は十分に(しかし表現を抑えて)ほめる。
○アサヒカメラ診断室のように、複数のテスターの意見を編集部がまとめる形(?)
   ↓
ただし、それよりも内容の豊かで簡明な

⑤上記②の測定について
○たとえばアンプの場合、いままで測定されなかったトーンコントロールの各ポジションでのf特を入れたい。
○TC、EQのf特について、その偏差やうねりを見せるだけでなく、添い身について(CP等考慮しながら)十分な解説を加える。

○③の試聴について
 ●リファレンスの製品との比較(価格を無視した評価尺度として)、国による音の傾向を掴む(例JBL、BC-II......)
 ●ライバル製品との比較(CP、その時点時点でのレヴェルを考えて)
 ●平均音量レヴェルを3〜4段階の等級に分けて試聴(パワー、耐入力等の性格を分析する手段)
 ●聴きどころの基準を最初は明確にしておき、必ず同じ基準での評価を書く。

新製品紹介 B欄
ニュース性/網羅すること/製品の性格・位置づけを重視した簡明な解説/情報の早さ、正確さ(A欄からの性格上、製品が市販された後でとりあげることが往々にしてありうるのに対して、B欄はとにかく情報を早く流すことを生命とする)
内容とはべつに
A.目次を見やすく。(表紙2の次に必ず置く)

B.広告に対する考えを新たにして、広告も情報記事のひとつと考え、インフォメーション欄として、一括し(記事中に分散させず)黙示中に作品をとりこむ等。できれば本誌向きの広告のパターン,スタイルをスポンサー側に一考してもらう。あくまでも、広告をまま子扱いするのではなく、逆に、積極的にユーザーの目にふれやすい情報欄として扱うのが本意(たとえばこの欄に独立のトビラをつける等)であると共に、本文記事のレイアウトも含めて簡明な印象を与えるような配慮。(スポンサーの大半がこの点を誤解しているが、多くの読者の意見を聞いてみれば、むしろ広告欄を一括して集めてある方が、積極的に歓迎される)

C.上のことも含め、月刊誌であっても、SS本誌同様、いつまでも保存しておきたくなるような、上品で美しい本にしなくてはならない。

D.音楽、レコード欄をどう扱うか
オーディオ誌であることに徹するなら、レコードは新譜一覧表の形だけ扱う(但し表の作り方に工夫を加え、もっと見やすいものにする。現在各誌の表組みはひどく見にくく、実用的でない)
但し例えば「朝日新聞」の試聴室や「暮しの手帖」のレコード欄のように、毎月のテーマをきめて、新譜であると否とにこだわらず、評論家の選んだレコードを楽しく紹介する欄は欲しい(例「今月はモーツァルトの室内楽を聴いてみよう」、「今月はジャズ・バラードの素敵なムードを味ってみよう」......式に)

E.オーディオ記事の扱い方全般に、かつての熱っぽい雰囲気の凍えらせて、冷たくつき放したような印象が支配していることを、多くの読者が強い不満をもって指摘している。この点はライター、エディターともに猛反省をしなくてはならない最重要点。
活き活きとした澄んだやさしい目で、しかも熱烈に愛情をこめてオーディオに対するという姿勢を、永続させること。少なくとも、そういう感じが、毎号の誌面にヴァイタリティを持って表現されること。その姿勢をバックボーンにしたときに(結果的に、例えば)新製品A欄での、おさえた表現が輝くような。 
◎多くの項目を満載するよりも、最小限の記事の一点一点に、十分のスペースと時間をさいて、総ページは少なくとも重量感(読みごたえ)のある本をつくるべきではないか。

◎すべての点で、既刊の専門誌の裏をかくような料理のしかた。簡明でありながら堪能させる味わいの凄さ。

◎毎月、洪水のように生れる製品、アクセサリー類、レコードのすべてを(ほとんど一覧表に近い形で整理しておいて、その中からある主張をもってセレクトしたものについて、十二分の機材と解説を加えて紹介する、という形。

◎つき放した評価ではなく、オーディオファン、音楽ファンが、その製品、そのレコードにのめり込んだ軌跡を、あとからクールにリポートしたというような形。

◎評価、批評したり紹介したりするライターも、それを扱う雑誌社も、製品やレコードの扱いにあまりにも小利巧になりすぎて、一般ユーザーの本当に期待している対象へののめり込みが全くなくなってしまった点が、こんにちのオーディオ、レコード専門誌の弱み。

◎しかし対象にのめり込んだ姿勢が、そのまま評価に出たのでは、ベタついた、客観的評価を欠くかの印象の、あるいはメーカー等からつけ込まれる記事になりやすい。のめり込むというのはあくまでもライターやエディターのバックボーンであって、その表現は、現代流にあくまでも緻密に、クールに、簡潔かつ直截的に......であることが重要。

◎昨今のオーディオライターが、多忙にかまけて、本当の使命である「書く」ことの重要性を忘れかけている。談話筆記、討論、座談会は、その必然性のある最小限の範囲にとどめること。原則として、「書く」ことを重視する。「読ませ」そして「考えさせる」本にする。ただし、それが四角四面の、固くるしい、もってまわった難解さ、であってはならず、常に簡潔であること。ひとつの主張、姿勢を簡潔に読者に伝え、説得する真のオピニオンリーダーであること。

◎しかしライターもまた、読者、ユーザーと共に喜び、悩み、考えるナマ身の人間であること。小利巧な傍観者に堕落しないこと。冷悧かつ熱烈なアジティターであること。

◎気取りのなさ。本ものの大衆料理の味。
◎目次を必ず表2の次につける。

◎広告ページを「情報ページ(又はインフォメーションセンター など......)」と呼び、分散させず1ヶ所に集中。索引は目次中に載せる。

◎新製品の扱いを2本立てにする。
A.今月活躍の製品(S−J選定に相当するような、本誌スタッフが選定した製品)について十分にページをとる。
 a.解説(解説)──ライバル機種との対比、又、そのメーカーの製品系列の中での位置づけを十分に解説。製品についても、技術的解説よりもその意味合いに重点。メーカーの意図も紹介。
 b.テストリポート(分析)──おもに測定及びコンストラクション、デザイン等からの公正な評価。ライバル製品、及びそのメーカーの中での位置づけ。
 c.音質評価(使ってみて)──CPを考慮した場合、しない場合、ライバル機種との、そのメーカーの中での、使いこなしについて十分に解説。組合せ然り。音楽への向き不向き。

ページ数は最低6、ないしは12。
多角的に、その製品の性格を十分に浮彫りにする。

B.新製品紹介欄
 いわゆるニュース的扱い、ただし、その記述は、簡明、直裁を心がける。
 ライバル機種との比較表など考慮

◎製品以外の情報欄
 催し、メーカー主催又は後援の地方での催し

◎内外の話題

◎論説、随筆、etc. 読みもの

◎読者との交流をどうするか。訪問(個人、グループ)
 読者の夢をきく。

◎販売店──
スケッチ」のところで書いたように、瀬川先生が書かれたメモとスケッチが、いま手もとにある。

そのひとつ、オーディオ誌の企画書の下書きといえるメモを公開していく。

はしり書きであること、瀬川先生の書かれた文字を見るのははじめてなので、
何箇所か読み取れないところもあるが、極力、書かれたとおりのまま入力している。

おそらく1977年に書かれたメモであるが、そのままこの時代にあてはまることが書かれている。
「お前にはわからないよ。まだわからないよ。まだ人生を知る時間を与えられていないんだもの。いつかはお前にも、音楽は技巧やふしだけでなくて、人生そのもの意義であり、限りない悲しみと、堪えられない美しさとを持つものだということを悟る日が来るだろう。その時にはお前にも分るよ」
(パール・バック「母の肖像」新潮文庫・村岡花子訳より)

音楽に涙する母が、「若い娘の高慢さから」なじる娘(パール・バック)に、語る言葉である。

「知る」ではなく「悟る」だということ。

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