2009年9月アーカイブ

(その3)を書いてから思い出したのは、フルトヴェングラーの「指環」は、
昼休みに、食事の時間ももったいないから抜きで、六本木から銀座まで出かけて買ってきたこと。1983年のことだ。

当時は、六本木には輸入盤を扱うレコード店はなかった。
六本木ヒルズの場所には、WAVEがあったが、
開店したのはもうすこしあとで、同年11月18日だ。

WAVEができるまでは、試聴レコードの買い出しには、銀座か秋葉原まで出かけていたのが、
ステレオサウンドから歩いていけるところは、大型のレコード店ができたものだから、よく通った。

銀座の山野楽器から会社にもどり、机の上、目の前にどんと置き、仕事中眺めていた。
こんなことを楽しんでいた。

LPでの「指環」のセットを買って帰ったことのない人にとってはどうでもいい話だろうが、
これを思い出していたら、ネット通販でのCD購入と、ネット配信での音楽データ購入との差は、
どれだけあるのだろうかと思う。
ショルティの「指環」が、発売当時、ものすごく話題になっていたことは、
知識としては知っていたものの、学生のときには、これだけのセットものを買うことは無理だったし、
他に、優先的に欲しいレコードばかりだったこともあり、ショルティの「指環」を聴いたのは、
じつはCDになってからである。

私が最初に買って聴いた「ニーベルングの指環」は、イタリア・チェトラから出た、
フルトヴェングラーが、スカラ座オーケストラを振ったライヴ録音のものだ。
もちろんLPである。

発売の数ヵ月前から、フルトヴェングラー初のステレオ録音という謳い文句で宣伝されていたディスクだ。
結局、モノーラル盤だったが、銀座の山野楽器で、このセットをレジで手渡されたときは、
想像以上に重かったことが、はじめての「指環」であることを実感させてくれたし、
これからこれを聴くのかと思うと、わくわくという期待と、
シンドイだろうなぁ、という気持がないまぜとなって、さらに重さがましたように感じていた。

いまなら、インターネットで注文して、宅急便で届くのを待つだけであろうが、
当時は、これを両手で抱えるようにして、夕方の満員電車に乗って帰宅するのも、
とにかく気を使い、大変だったことを思い出す。
岡俊雄先生は、「マイクログルーヴからデジタルへ」(ラジオ技術社刊)のなかで、
ショルティ/カルショウによる「指環」の「ラインの黄金」について、こう書かれている。
     *
《ラインの黄金》は一九五九年のというより、レコード史上でもっとも大きな話題を集めたレコードのひとつであったことはたしかである。(中略)
このレコードの数多い聴きどころのなかでも最大のものは、第六面の神々のワルハラ入場のための雷神ドンナーが虹の橋をかけるところだ。低域の上昇音型がクレシェンドして、その頂点がハンマーの強烈な一撃が入る。ここの部分は当時のステレオ・レコードとしては信じがたいほどのハイ・レベルでカッティングされていて、うまくトレースするカートリッジが少なかった。
     *
「ラインの黄金」が衝撃だったことは、ステレオサウンドにいたころ、Tさんからも聞いている。
Tさんは、五味先生の友人で、もとレーダー技術者という人だ。

根っからの技術者らしいTさんは、どちらかといえば淡々と話される方だったが、
「ラインの黄金」については、すこし興奮された口調で、当時の衝撃を思い出しながら語られた。
「のだめカンタービレ」の主人公の野田恵は、実在のピアニストで言うならば、
誰に近いのだろうか、とは、読んだ方ならば、いちどは思うだろう。
どんな音を、ピアノから抽き出すか、も空想してしまう。

そんな空想をもっと楽しませてくれそうなピアノが、
ベーゼンドルファーから7月7日に発表された "Audi Design Grand" である。

名称が示すように、自動車メーカーのアウディによるベーゼンドルファーのスペシャルモデルである。

ベーゼンドルファーのサイトに行くと、"Designed Models" というページがある。
アウディのを含め、12モデルについて、アクセスできるようになっている。

そのなかでも、"Audi Design Grand" は、とびぬけて素晴らしい。

なぜアウディなのか、といえば、アウディの地元インゴルシュタットで、
2001年から開催されているジャズコンサートを行なっている縁からだそうだ。
すでに270回ものコンサートが行なわれ、参加したジャズ・ピアニストの多くが、
ベーゼンドルファーのピアノを好んで演奏したからだそうだ。

どうもジャズのためにつくられたスペシャルモデルのようなのだが、
こんな素敵なピアノを、ジャズ・ピアニストだけに独占させるなんて、もったいない。

写真を見てもらえればわかるが、低音弦側の脚は、面で構成されている。
ここも響板になっているとみるべきだろう。

高音弦側の脚は、対照的な素材と印象を与える、金属によるフレームからなる。
モダーンという表現が、ここまでしっくりくるピアノは、これがはじめてであろう。

このピアノを見ていると、私の中の妄想アクセラレーターが、自動的にonになる。
この "Audi Designed Grand" をのだめが弾いたら......、と想ってしまう。

Audiのサイトにも、このピアノのページが設けられていて、
プレスキット(約40MB)がダウンロードできる。
その資料に、詳細が書かれているし、写真も数多く添付されている。

このピアノで録音されたディスクは、いつ出てくるのだろうか。
「本物のエネルギーを注入してくれる」ものは、人によって違っていて当然である。

ひとと同じことなんて、なにひとつないのだから、
音楽から「本物のエネルギー」を受け取るのだって、
ある人はクラシック、またある人はジャズ、ロックからだという人だっているわけだ。

同じクラシックでも、フルトヴェングラーの演奏を大切にする人もいれば、
カラヤンでなければならない人がいてこそ、自然であるといえる。

マーラーの交響曲第5番にしてもそうだ。
長島先生と私は、バーンスタイン/ウィーン・フィルの演奏をとったが、
一方でインバルの演奏をとる人がいる。

どちらが音楽がよくわかっているとか、高尚だとか、そういう問題ではない。

生れも育ちもひとりひとり違うのだから、必要とするものだって違うというだけのはなしである。
ただし、あくまでも、音楽(音)と真剣に対決する瞬間をもてる人にかぎる。

タンノイ・オートグラフでフルトヴェングラーをきき、
カラヤンのベートーヴェンには精神性がない、といってみたところで、
「ろくでなし」のささやきに翻弄されていることにすら気づかないのであれば、
五味先生の劣悪なマネにすらなっていない。
「ろくでなし」を追いだせ、と言いたいのではない。
「ろくでなし」のささやくいいわけに耳を貸すな、と言いたいのである。

オーディオと向かい合い、音と向かい合い、音楽と向かい合っているときだけは、
ディスク1枚だけでいい、1曲だけでもいい、
そのあいだだけは「ろくでなし」を、しっかりと認識したい、それだけである。

「音楽においてのみ、首尾一貫し円満で調和がとれ」ていたフルトヴェングラーのようにありたい、のである。

先週、友人のYさんからのメールには、丸山健二氏の「新・作庭記」(文藝春秋刊)からの一節があった。

ひとたび真の文化や芸術から離れてしまった心は、虚栄の空間を果てしなくさまようことになり、結実の方向へ突き進むことはけっしてなく、常にそれらしい雰囲気のみで集結し、作品に接する者たちの汚れきった魂を優しさを装って肯定してくれるという、その場限りの癒しの効果はあっても、明日を力強く、前向きに、おのれの力を頼みにして生きようと決意させてくれるために腐った性根をきれいに浄化し、本物のエネルギーを注入してくれるということは絶対にないのだ。
「矛盾した性格の持ち主だった。彼は名誉心があり嫉妬心も強く、高尚でみえっぱり、
卑怯者で英雄、強くて弱くて、子供であり博識の男、
また非常にドイツ的であり、一方で世界人でもあった」のは、
ウィルヘルム・フルトヴェングラーのことである。

フルトヴェングラーのもとでベルリン・フィルの首席チェロ奏者をつとめたことのある
グレゴール・ピアティゴルスキーが、「チェロとわたし」(白水社刊)のなかで語っている。

同じ書き出しで、1992年、ピーター・ガブリエルのことを書いた。
「ろくでなし」のことにふれた。

人の裡には、さまざまな「ろくでなし」がある。
嫉妬、みえ、弱さ、未熟さ、偏狭さ、愚かさ、狡さ......。

それらから目を逸らしても、音は、だまって語る。
音の未熟さは、畢竟、己に未熟さにほかならない。

音が語っていることに気がつくことが、誰にでもあるはずだ。
そのとき、対決せずにやりすごしてしまうこともできるだろう。

そうやって、ごまかしを増やしていけば、
「ろくでなし」はいいわけをかさね、耳を知らず知らずのうちに塞いでいっている。

この「複雑な幼稚性」から解放されるには、対決していくしかない。

ピアティゴルスキーは、つけ加えている。

「音楽においてのみ、彼(フルトヴェングラー)は首尾一貫し円満で調和がとれ、非凡であった」
5年前だったはずだが、菅野先生に、「敵は己の裡(なか)にある。忘れるな」と、言われた。
胸に握りこぶしを当てながら、力強い口調で言われた。

この、もっともなことを、人はつい忘れてしまう。

この菅野先生の言葉を思い出したのは、岩崎先生がなぜ「対決」されていたのか、
なに(だれ)と対決されていたのか、について考えていたからだ。

「自分の耳が違った音(サウンド)を求めたら、さらに対決するのだ!」──

岩崎先生の、この言葉にある「違った音(サウンド)」を求めるということは、どういうことなのか。

「複雑な幼稚性」(その3)で、「人は音なり」と書き、悪循環に陥ってしまうこともあると書いた。

悪循環というぬるま湯はつかっていると、案外気持ちよいものかもしれない。
けれど、人はなにかのきっかけで、そのぬるま湯が濁っていることに気がつく。
そのときが、岩崎先生の言われる「違った音(サウンド)」を求めるときである。
月を見ていた。

8日もすれば満月になる月が、新宿駅のビルの上に浮んでいたのを、信号待ちをしていたとき、
ぼんやり眺めていた。まわりに星は見えず、月だけがあった。
そして想った。

昨年2月2日、瀬川先生の墓参のとき、位牌をみせていただいた。
戒名に「紫音」とはいっていた。

最初は「弧月」とはいっていた、ときいた。

だからというわけでもないが、ふと、あの月は、瀬川冬樹だと想った。

東京の夜は明るい。夜の闇は、表面的にはなくなってしまったかのようだ。

「闇」「暗」という文字には、「音」が含まれている。

だからというわけではないが、オーディオで音楽を聴くという行為、音と向き合う行為には、
どこか、暗闇に何かを求め、何かをさがし旅立つ感覚に通じるものがあるように思う。

どこかしら夜の闇にひとりで踏み出すようなところがあるといえないだろうか。
闇の中に、気配を感じとる行為にも似ているかもしれない。

完全な闇では、一歩を踏み出せない。

月明かりがあれば、踏み出せる。足をとめず歩いていける。
月が、往く道を、ほのかとはいえ照らしてくれれば、歩いていける。

夜の闇を歩いていく者には、昼間の太陽ではなく、月こそ頼りである。
夜の闇を歩かない者には、月は関係ない。

だから、あの月を、瀬川冬樹だと想った。
未完で終ってしまった「ルードウィヒ・B」だが、同じくクラシック音楽をテーマとした、
現在進行中の「のだめカンタービレ」が、いよいよ次号で最終回を迎えるようだ。

今日発売の「Kiss」最新号掲載の同作品の最終ページに「次号、グランドフィナーレ」の文字があった。
「Kiss」は月2回発行(10日と25日)だが、「のだめカンタービレ」の掲載は、基本的に月1回。
掲載誌で読み、単行本でまた読んできた。
なにか素晴らしい決着で終りそうな予感にみちた今回の話も、
読んでいて「じーん」とくる、ふたりの演奏シーンがある。

「ルードウィヒ・B」と「のだめカンタービレ」は、時代設定も、主人公が作曲家とピアニストかという違いがある。
それだけでなく、違いは、手塚治虫と「のだめカンタービレ」の作者、二ノ宮知子では、
音楽の表現手法にもある。
午後、ずいぶんひさしぶりにショルティの「ワルキューレ」を聴いていた。
カルショウ・プロデュースの、この「指環」を聴くたびに、ここ数年思ってきたことは、
SACDで、なぜ出してくれないのか、だった。

今日も聴き終わって、「いつ出るんだろう......」、そんなあてのないことを思っていたら、
なんとエソテリックが、年末に、全曲盤をSACDで出してくれるとのこと。

11月には、フィストゥラーリのチャイコフスキーの「白鳥の湖」も出る。
これは、また渋い選曲である。
フィストゥラーリをご存じない方は、だまされたと思って、ぜひ聴いてほしい一枚である。

「指環」だが、いくらなのかはどうでもいい。
当時、この「指環」を聴いた人たちが味わった昂奮を、いま、新鮮なかたちで味わえるかもしれない。

「ラインの黄金」が録音されたのが、1958年、もう50年以上前のこと。
最後の録音の「ワルキューレ」からでも、45年経っている。

こう書くと、一部のマニアの人たちは、「マスターテープの劣化が......」とネガティヴなことを口にするだろう。
いまにして想えば、黒田先生は、アクースタットの試聴の最中に、ほぼ決心されていたのではないだろうか。

こう語られている。
「静電型のスピーカーということで、ぼくの先入観からパーカッシヴな音は不得意であろうとたかをくくっていたのですが、ほとんど不満のない反応を聴かせてくれたことも意外でした。
たとえば『トスカ』の第一幕の幕切れのところで鐘が鳴ります。これが甘い響きになるかと思ったんですけど、非常に硬質な音がしたでしょう。」

「トスカ」の硬質な鐘の音が鳴らなかったら、
「スーパー・ギター・トリオ」のレコードをリクエストされることはなかったのではないか。

不得意であろうと思われていたパーカッシヴな音が、しっかり響いてきたことで、
最後の駄目押し的な確認の意味をこめての「スーパー・ギター・トリオ」だったような気がする。

その「スーパー・ギター・トリオ」を、アクースタットは期待と予想を上廻る音で提示してきた。
これで、黒田先生は決心されたはずだ。
アクースタットのモデル3で聴く「スーパー・ギター・トリオ」のレコードは、すさまじかった。
黒田先生が、「このレコードを」、と言われた理由が、見事に音になってあらわれていた。

「ギターの音が弾丸のことく」と黒田先生の発言にあるように、飛び交っていた。

なんてすごいスピーカーだろうと思い、なんてすごいレコード、ということ以上に、
なんてすごいギターの名手たちだろう、と思った。

この「一度めりこんでしまうと自閉症になって」しまいそうなスピーカーを、
黒田先生は、JBLの4343の後釜として導入される。

そして一緒に試聴に参加していたステレオサウンドの原田勲編集長(当時)も、
ヴァイタヴォックスのCN191を追いだし、アクースタットを導入されたのだから、
サウンドコニサーの取材・試聴に参加した者に、アクースタットのモデル3は、強烈な印象をのこした。

試聴後、みな、軽い興奮状態にあった。
真空管アンプには、いくつか採用例があったチョークインプット方式だが、
トランジスターアンプになってからは、1987年に登場したチェロのパフォーマンスまで、採用例はなかった(はず)。

チョークインプット方式の真空管アンプをつくられた方なら、おわかりになるだろうが、
チョークインプット方式では、チョークがうなりやすい。
このうなりは耳につく。

チェロのパフォーマンスでは、パワーアンプにも関わらず外部電源とし、
電源トランス、整流ダイオード、チョークコイルまでを、別筐体にまとめている。
しかもチョークの下にはかなり厚いゴムをはさみ、
チョークの振動がシャーシーに伝わらないよう配慮されていた。

もしアンプと同一筐体に仕上げられていたら、
もともと振動源が、コントロールアンプよりも多いパワーアンプにとって、
よけいに、それももっとも大きな振動源が増えることになる。

井上先生は、電源トランスがうなっていてはだめだ。
うなりがあると、音場感がいともたやすくくずれてしまう、とよく言われていた。

電源トランスよりもうなるチョークがあっては、台無しである。
チョークことについて、すこしふれたので、つづけて電源について書いていこうと思う。

チョークを採用した電源には、コンデンサーインプット方式とチョークインプット方式がある。

簡単に説明すると、コンデンサーインプット方式は、
整流回路(整流管、整流ダイオードで構成される)のすぐあとに平滑用のコンデンサーがあり、
そのあとにチョークが直列に挿入される。
チョークインプットは、整流回路のすぐあとにチョークが直列にはいり、その出力にコンデンサーがある。

つまりチョークに入る位置が異るともいえるし、最初にはいるコンデンサーの位置が異るともいえる。

どちらがオーディオ用として優れているかといえば、チョークインプット方式だと思う。

電圧波形を見るかぎり、コンデンサーの容量が充分にあれば、リップルはほぼ抑えられる。
けれど、電圧波形ではなく、電流波形をみると、
チョークを使った電源でも、コンデンサーインプット方式とチョークインプット方式では、
大きな違いがある。電流供給能力が高く要求されるパワーアンプにおいては、
チョークインプット方式に分があるいえる。
Digital Integration ということばに賛同してくださる方は、少ないだろう。
おそらく誰もどこも、Digital Integration は使わないであろう、と、そう思いながらも、
このことばを考えたのは、結局は、己のためである。

オーディオとコンピューターの融合について考えるときに、
ただ漠然と考えるのではなく、道を示してくれるようなことばがあると、思考のしかたが変わってくる。

デジタル・コントロールアンプ、デジタル・コントロールセンターよりも、
私にとっては、デジタル・インテグレーションセンターのほうが、イメージがわきやすい。

言葉にすれば、はっきりと見えてくるものが、かならずある、と信じている。
整流コンデンサー、チョークトランスは、些細なことであろう。

読者が知りたいのは、その製品の音であって、
技術内容の些細な間違いはどうでもいい、という声がきこえてきそうだが、
なぜ、こんな間違った表記をしたのかを勘ぐれば、おそらく渡された資料にそう書いてあり、
そのまま彼は、自らの知識と照らし合わせることなく、ただ書き写したからであろう。

そして編集者も、何の疑問もいだかず、おそらく間違いに気づきもせず、そのまま印刷所にまわしたのだろう。

それが、その本づくりの編集方針であるのなら、部外者の私が口を挿むことではない。
それでもひとつだけ言っておきたい。

些細なところから、綻びははじまり、ひろがっていく。
コンデンサーの種類には、電解コンデンサー、フィルムコンデンサー、セラミックコンデンサー、
タンタルコンデンサーなどがあり、
使用用途では、平滑コンデンサー、デカップリングコンデンサー、カップリングコンデンサー、
バイパスコンデンサーなどと呼ぶ。

整流管、整流ダイオードはあっても、整流コンデンサーは、世の中に存在しない。
コンデンサーに整流作用があったら、ノイズの発生はないわけだから、整流回路にぜひとも使いたいのだが、
実際には、そんなことはできない。

電源回路に使うコンデンサーにできるのは平滑作用であって、整流作用ではない。

なのに、数年前、あるアンプの新製品紹介記事に、整流コンデンサーと書いている人がいた。
この人は、チョークのことを、チョークトランスと、さもこちらが正式名称のようにも書く。

説明するまでもないことだが、チョークは、チョークコイルであって、トランスではない。
たしかに実際に製品のなかには、コイルがふたつあるものがある。
とはいって、トランスのように、1次側、2次側ではなく、直列にするか並列にするか、
チョークを流れる電流の大小によって使い分けるためのものである。

チョークコイルは、あくまでもコイルであってトランスではない。
チョークと書けば済むことなのに、わざわざチョークトランスと、誤ったことを書く人がいるのを、
読者はどう受けとっているのだろうか。編集者は気にしないのだろうか。
ジローさんのコメントにあるように、Macオーディオと書いたところで、
ほとんどの方には、伝わらないだろう。

だから、PCオーディオ、と表記したくなる気持も分からないでもないが、
それでもMacのみを使い続けてきた人ならば、表現のしかたを考えてほしかったと思う。

PCオーディオにかわることばを、自分で考えるのもいいし、
考えつくまでのあいだは、たとえば「Macを使ったCD再生」、
「コンピューターによる音楽再生」と、いろいろ表現できる。
わかりにくさは、まったくないはずだ。

ジローさんとは面識があるが、このブログを読んでくださっている、ほとんどの方とは面識がない。
ここでは、私が文字にしていることば以外の要素はない。
あえて写真もグラフ、図柄もいれていない。
そこにおいて、ことばをおろそかに扱うということは、読み手への態度として、
書き手が気づかぬうちにあらわれ、読み手はそれを敏感に感じとる。

仲間内で、ある了解のもとに、Macユーザー同士がPCオーディオ、と使うのまで、
あれこれ言うのではない。

基本的に文字だけがコミュニケーションの手段である本やネットにおいて、
みんなが使っているからと安易に流されたり、おろそかに「ことば」を扱うことを、
書き手であるのならば、真剣に考えるのは当然のことである。

だから、以前書いたことだが、安易に略すことも、どうかと思っている。

とくにいままでにない、新しいことばをつかうのなら、より慎重であるべきだ。
EMTのCDプレーヤーにはハードディスクが搭載されたり、イーサネット端子が設けられたりしている。

デジタル・コントロールセンターの「かたち」が、なにも定まっていない、
いまはオーディオとコンピューターの融合に関しては過渡期であるがために、
放送局の要望により登場した形態なのだろうと思っているが、
本来CDプレーヤーに、これらの機能は搭載されるべきものなのだろうか。

D/Aコンバーターが多機能化してゆけば、
デジタル・コントロールセンターへと自然となっていくのだろうか。

パワーアンプがアナログ入力のみであれば、そうなっていくのかもしれないが、
デジタルスピーカーの登場、D級パワーアンプの進化は、
まったく新しいデジタル・コントロールセンターのかたちを促していくはずだ。

デジタルといっても、PCM信号もあれば、DSD信号もある。圧縮音源も、いくつもフォーマットがある。
デジタル伝送の規格もひとつだけではない。

デジタル・コントロールセンターに求められる機能を考えていくと、
コントロールという言葉ではカバーできなくなるくらい、範囲のひろいものとなっていくだろう。

そう考えたとき、デジタル・コントロールセンターにかわることばとして思いついたのが、
Digital Integration(デジタル・インテグレーション)である。
1993年ごろか、マランツから「UNIX」と名づけられた製品が登場した。
コンピューターのUNIXとの商標の関係から、AX1000、と型番が変更されている。

マランツは、このAX1000(UNIX)をオーディオコンピューターと定義していたように記憶している。
AX1000は、アナログ、デジタル入出力を備え、
リスニングルームの音響特性の測定から補整までを、一台でこなす。価格は200万円弱だったはず。

それからほぼ10年後の2003年、ゴールドムンドから、ユニバーサルプリアンプとして、
MINESIS24と30が登場した。

内部にDSPを搭載しており、入力にはアナログ端子も設けられているが、出力はデジタルのみという、
いわばデジタル・コントロールアンプである。

マランツもゴールドムンドも、意欲的な製品だと思っているが、そのわりには話題にならない。

デジタル・コントロールアンプ、というよりも、デジタル・コントロールセンターと呼ぶべきだろうが、
これから先、どういう形態が求められていくのか、
このことについて技術者をまじえての議論がなされて然るべきだと思う。
CDを買ってきて、ハードディスクにリッピングして、バックアップもしっかりしているから、
とCDを売って手放してしまう人もいる、ときく。
こうなると、CDは、音楽を聴くメディアではなくなり、データの移動するための手段でしかないわけだ。

いわばアナログ的なデータ配信といえなくもない。

CDに、モノとしての価値を見いださない人が、今後ふえてくるのだろうか。

こんな状況も頭に浮かべながら、PCオーディオにかわることばを、いくつか考えていた。
そんなときに、デジタルスピーカーを聴いた。

聴いて、考えついたことばは、どれもPCオーディオやデジタルファイル・ミュージックと同じように、
プログラムソースに関連するものでしかないことに気がついた。

狭い範囲だけを示している。
どれも、システム全体をあらわす意味を含んでいない。
qualityを、クオリティではなく、クォリティと、
enclosuerを、エンクロージャではなく、エンクロージュアと書くのは、
ステレオサウンドの表記になれているから、である。

だから、ステレオサウンドが、オーディオとコンピューターの融合を、うまくあらわすことばを提案してくれれば、
それに従うことに抵抗はないのだけれど、「デジタルファイル・ミュージック」に関しては、
安直につけられた印象があるし、ことばとして正確なのか、とも思うところがある。

コンピューターが扱うファイルは、まずデジタルである。
だからわざわざデジタルファイルという必要はない、ということ。
それからファイルは、データがひとつのかたまりとしてまとまっているものを指し示す言葉のはずだ。

ハードディスクに記憶されているデータの集合体はファイルであるが、
配信されるものを、リアルタイムで再生しているとき、そのデータは、ファイルと呼べるものだろうか。
いちど全データをハードディスクにダウンロードして再生するのであれば、ファイルの再生であるが、
ライヴで生中継されているデータは、ファイルとは呼べない。

データミュージックというのなら、わかる。
けれど、デジタルファイル・ミュージックには、抵抗感がある。
ここで、オーディオとコンピューターの融合について書いた。16年前のことだ。

ここ数年、PCオーディオという単語を、ネットでもオーディオ誌でも見かけるようになった。
ネットでは、PCオーディオが一般的だが、オーディオ誌となると、
各誌で、意味するところはほぼ同じでも、ステレオサウンドは「デジタルファイル・ミュージック」、
オーディオベーシックは「PCオーディオ」、無線と実験は「ネットオーディオ」と、ばらばらである。

デジタルファイル・ミュージックも、首をかしげたくなるところがあるし、PCオーディオも、
PCという単語自体がウインドウズマシーンを指し示すものだと、Macユーザーの私は思っているから、
口にすることも書くことにも抵抗がある。

ウインドウズでやられている人がPCオーディオと表記しているのを見ても、まったく気にならないが、
Macユーザーだといいながら、「PC」と言ってしまう人には、
なぜ、この人は、MacのことをPCといえるのだろうか、と、ものすごい異和感を感じる。
なんと、安易に言葉を使う人だろうと思ってしまう。
そんな人の書くことは、まったく信用していない。私はそういう人間である。
スピーカー単体での高効率化が、いまのところ不可能と思えるほど困難であるならば、
アンプも含めたシステム全体での高効率化を実現できるよう、
研究・開発を進めていくのは、技術のあり方のひとつとして、正しいことである。

私が聴くことができたのは、スピーカーも小さいし、アンプ部の信号処理もFPGAで行なっているというものだから、
最大出力音圧レベルの点でもまだまだだし、
現在のシステムと拮抗できるだけのクォリティを実現していくわけでもない。

それでも、システム全体としての効率の高さは、きっとクォリティと結びついていくだろうし、
思わぬ変化をとげることもあるだろう。

このことを、デジタルスピーカーを聴いて、まず思った。
そして、フルデジタルシステムについて夢想した。
Digital Integration を思いついた。
デジタルスピーカー・システムの効率は、いまの段階でもかなり高いと思われるし、
これから先、開発がすすんでいけば、さらに高くなっていくことだろう。

スピーカーユニットが、磁気回路、ボイスコイル、振動板という組合せから構成される、
スピーカー誕生のときからの基本構造が、抜本的に変化しないかぎり、
電気信号(入力信号)の音への変換効率は、それほど高くすることは、そうとうに困難なことである。

いま存在しているものよりも、ずっと強力な磁気回路、ずっと軽くて丈夫な振動板といったものが開発されたとしても、
変換効率が、50%をこえることができるだろうか。

スピーカーの変換効率は、想像以上に低い。
いまでは、どちらかといえば高めの出力音圧レベル92dB/W/mのスピーカーで、効率1%である。
99%の電気信号は、熱となって消費されていく。

20Hzから20kHzまでの可聴帯域をほぼカバーしながら、50%は無理としても、
20から30%ていどの変換効率のスピーカーを実現できたら、オーディオは大きく変化していくことだろう。

くり返すが、私がいきているうちには、そんなスピーカーは現われてきそうもない。
ウーファーもドライバーも、ウェスターン・エレクトリックのフィールド型ユニットで、
電源は、それぞれにタンガーバルブ使用のモノを、それぞれのユニット用に同じ数だけ用意するとしたら、
スピーカーの磁気回路のためだけに、どれだけの電力が必要になるのか。

パワーアンプも、小出力とはいえ、
ウェスターン・エレクトリックの、当時の真空管のパワーアンプの消費電力は、そこそこ大きい。

スピーカー、アンプ部をふくめた、システム全体の消費電力は、専用の電源を用意しなければならないほど、
正確にはどれだけになるのか計算したことはないけれど、そうとうに大きい。

スピーカーは高能率だが、それを実現するシステムの効率は、決して高くはない。
能率の高いスピーカーといえば、
シーメンスやウェスターン・エレクトリックの劇場用スピーカーということになろう。

ウェスターン・エレクトリックのフィールド型のスピーカー群は、わすか数Wの出力のパワーアンプでも、
満員の劇場の観客全員を満足させるだけの音を出せる。

出力音圧レベルは、ゆうに100dB/W/mを超えていたであろう。
たしかに能率は、圧倒的に高い。
けれど、この高能率を実現するために消費する電力の大きさは、いったいどれだけになるのか。

フィールド型ユニットだけに、磁気回路に専用の電源を必要とし、
この電源の種類によって、ほんとうは変ってほしくないのだが、誰の耳にも明らかなぐらいに音は、ころころ変る。

記事にはならなかった(もともと記事にするつもりのない実験だったのだが)、
私がステレオサウンドにいた頃、タンガーバルブによる電源を使った音出しを、すでにおこなっていた。

このとき比較用に聴いたのは、トランジスターを使った、ごく一般的な定電圧電源であり、
タンガーバルブ電源使用時の音は、これだけの音がでるのであれば、
家庭用としては、あまりにも大きすぎる規模の電源だけれども、しかたない、というしかないのか。
それほど、同じ音圧なのに、浸透力がまるでちがう。
ラジオ技術に載っていた基板の左半分は、信号処理を行なうFPGA(Field Programable Gate Array)と、
左端に、小さく8つ並んでいるD級アンプが、主だった回路である。

電源回路は、FPGA用に、実験用の外部電源を採用し、D級アンプ部には、単三の乾電池を一本のみ使用。

信号処理のFPGAは、専用のLSIを開発することで、より高性能化するとともに、消費電力もかなり抑えられる。
信号処理部、アンプ部もふくめ、すべて乾電池で動作させることが可能となる。

乾電池で動作といっても、それほど長時間の使用は無理なのでは、と思われる方もおられるだろう。
私もそう思っていたが、話をきくと、アンプ部の単三の乾電池は、ほぼ丸一日音を出しつづけていたにもかかわらず、
へたった様子がまったくなかった。

これで、デジタルスピーカーから出てくる音が、蚊の鳴くような、か細い、小さな音量では話にならないが、
音量の点でも、目の前にあった、見た目は貧弱なスピーカーは、きちんと鳴っていた。
「音は人なり」という五味先生のことばは真実であり、そこだけにとどまっていないと思う。

「人は音なり」も、また真実のような気がする。

「音は人なり」が示すように、その人の生き様が、音に反映される。
だがそれだけ終ってしまうわけではなく、その人となりが顕在化した音に、
聴き手は知らず知らずに影響を受けている。

使っているオーディオ機器、そこで鳴っている音に、聴く音楽が左右される。
オーディオ機器を使っているつもりで、油断しているとオーディオ機器に使われている。
鳴っている音に、影響されていないと断言できる人が、はたしているだろうか。

生き様が音にあらわれ、その生き様が音として、もどってくる。

ぬるい生き方ならば、ぬるい音がもどってくる。
いびつな生き方をしていたら、いびつな音がもどってくる。
そして音に影響され、またそのことが音に反映される。悪循環ではないか。

真剣な生き様であれば、真剣な音が鳴ってくる。
熱い生き様であれば、熱い音が鳴ってくる。
そういう音が戻ってくる、影響される。そしてまた音に反映される。

「オーディオは趣味だから」という逃げを口にしたら、そのことが音としてあらわれる。
ステレオサウンド 172号に、傅さんが追悼文を書かれている。

それにしても、なぜ傅さんだけなのか。

時間の余裕はあったのだから、他の人にも依頼してほしかったと、編集部に注文をつけたくなる。

私が編集者だったら、傅さんと黛健司さんに依頼する。

黛さんこそ、黒田先生の文章にたびたび登場する「M君」「M1」で、
編集者として、ふかく黒田先生とのつきあいがあった人なのに......、と思った。

今回載っていないということは、
黛さんが、黒田先生について書かれる文章を読む機会は、もうないかもしれない。

もったいないことだと思う。
1998年5月に、AppleからiMacが発表になった。
翌日には、個人のウェブサイトでも、あちこちで取りあげられていて、
私がみたかぎりでは、すべて絶賛だった。

G3プロセッサーを搭載して、USBの、はじめての採用と同時に、SCSIやADBなどを廃止。
たしかに内容のわりには、価格は抑えられていた。

このことも高く評価されていたが、それ以上に、絶賛されていたのはiMacのデザインについてだった。

誰も、iMacのデザインに疑問をもっている人は、少なくともネット上ではみかけなかった。

でも発表された写真をみても、360度回転して見ることができるQuickTime VRのファイルをダウンロードして、
いろんな角度からどう見ても、変なデザインにしか見えなかった。

なぜ、多くの人が、これを褒めるのか、まったく理解できなかった。

実物を見れば、印象も変るのかもと思い、8月の発売前に、新宿の高島屋に、実物が展示されたを見に行った。

ガラスケースに収められたiMacを見て、やっぱり変なデザインと確信した私は、
iMacの発売日前日に、PowerBook 2400Cを購入した。

iMacの登場のころから、「かわいい」ということばが使われはじめたような気もする。

とにかく液晶ディスプレイ以前のiMacのデザインを、すこしもいいとは思っていない私は、
あきらかに少数派なのだろうが、だからといって、オーディオ機器のデザインについて、
賛同をまったく得られなくても、変に感じるものについては、きっちりと書いていく。
量感というものは、あらためて考えてみると、ふしぎな面がある。

スピーカーならば、多少周波数特性のカーブと関係しているところがあるが、
それでも出しゃばった帯域において、量感が豊かというわけではない。

アンプやCDプレーヤーとなると、周波数特性的には、ほとんど差はない。
可聴帯域内は、いまやどんなローコストのアンプもフラットである。

低域の量感に富むアンプの周波数特性が、低域で盛り上がっていることはないし、
その逆の、量感に乏しいからといって、周波数特性のカーブに落ち込みがあるわけでもない。

にもかかわらず、量感の違いは、はっきりと聴きとれる。

スピーカーならば、エンクロージュアの響き(鳴り)が関係している、
アンプ関係ならば、電源の規模に関係している、という理由も、すべてではない。

電源部が充実しているアンプでも、マークレビンソンのML2Lのように、
引き締まった低域は、量感に富むという表現とは違う。
エネルギー感ともまた、量感は違うのだから。
「ステレオは飾りモノじゃないんだよ」といって、
岩崎先生は、JBLのコントロールアンプ、SG520の汚れを落とそうとはされなかった、ときいている。

中野で開かれていたジャズ喫茶でも使われていたことと、リスニングルームで喫煙されていたことで、
フロントパネルは、かなり汚れていたにもかかわらず、内部は新品同様にきれいにされていた、ともきいている。

アンプ内部にほこりがたまり、トランジスターや抵抗、コンデンサーのリード線にヤニがついたりしていては、
本来の性能(音)は発揮できない。そんな状態では、対決するなんてできない。

大音量は、そして、皮膚感覚を呼び起こすためでもあったように思う。

音を聴くのは耳だけだが、音を感じるのは耳だけではなく、からだ全体である。
五感をとぎすますためにも、皮膚感覚にうったえるだけの音量が必要だったのかもしれない。
「音に対決する」といったような息づまる聴き方──、
サウンド誌No.7に、岩崎先生は、こう書かれている。

ここにも「対決」ということばが出てくる。

この項の(その1)に引用した
「自分の耳が違った音(サウンド)を求めたら、さらに対決するのだ!」という岩崎先生のことばがある。

対決するにあたって、岩崎先生にとってどうしても必要だったのは、
雑念を浮かべることさえ不可能な大音量であったと思う。

対決に邪魔なのは、いうまでもなく雑念である。
雑念まじりで対決しようものなら、あっけなく負ける。
そういう聴き方を岩崎先生は、ずっとされてこられたのだろう。

だから対決するような音楽ではない場合には、小さな音で聴かれたのだろう。

それでは、なぜ、岩崎先生は対決されたのか、が残る。
小さな音量で、小さい音をはっきりと聴きとるには、スピーカーに近づけば、いい。
たしか、そんなことを以前、どこかに書かれていたことがある。

ということは、岩崎先生にとって大音量は、
小さい音(細かいところ)まではっきりと聴きたいためだけではないことがわかる。

なんのための大音量なのか、を、あらためて考えてみたい。

ステレオサウンド 38号で語られている。

「インストゥルメンタルのときは、確かに普通のひとよりも大きな音量で聴いています。かなり昔からそうです。たとえば、ジャズを聴くのだったら、15インチのスピーカーでなければ絶対にダメだと、ずいぶん昔から思っていた。」

そして38号の訪問記事のなかには、こうある。
     *
大音量で鳴らされるジャズに、しばらく耳を傾ける。いや、その音は、耳を傾けるなどという趣きではなく、ただひたすら聴いているほかにはいかなるてだてもないほどだ。しかし、雑念を浮かべることさえ不可能なその大音量ぶりは、官能的といいたいような快感をよびおこしてくれたのである。
A100をつくりあげたエンジニアは、このパネルフェイスに満足しているのか、を知りたい。

A100の中身をつくりあげた人の感性からすれば、
あのパネルフェイスに満足しているとは、どうしても思えない。

ここから先は、満足していないと仮定した上で、勝手に書いていくことを、ことわっておく。

A100のデザインの問題点は、どこにあるのだろうか。

デザイナーに問題がある、デザイナーに責任がある、と考える人もいるだろうが、はたしてそうだろうか。
問題はそれだけだろうか。

A100は、社内のデザイナーの手によるものなのか、外部のデザイナーの仕事なのか、は知らない。
どちらにしても、デザイナーから提出されたデザインを検討し、最終的な判断した人がいるわけだ。
それが、ひとりで決めたことなのか、それとも合議制でのことなのかも、どちらでもいい。

問題は、それを製品化してしまった組織自体にある、といいたくなる。

つまり、デザインがきちんとなされていないのは、A100のパネルフェイスではなく、組織であるということだ。
組織としてのデザインがしっかりしていれば、こういうことは起こり得ないはずだ。

数年前に、エソテリックから出たA-Z1、S-Z1を思い出す。
アンプのフロントパネルは、いわば「顔」である。
だからというわけではないが、エソテリックのA100を見ると、人の顔を連想してしまう。

ボリュウムのツマミが鼻のようだし、その上のプッシュボタンが横一列に並んでいるのは、
なんとなく目のような感じもする。

おそらく、そんな感じをうけてしまうのは、フロントパネルの両端を削っているからだろうと、思う。

ツマミ、ボタン類が少ないため、ややもすると平板的な印象のフロントパネルになりがちなだけに、
おそらくアクセントをつけるために、こうしたのかもしれない。
これがなんとも、コケた頬に見えてしまう。

こう見えてしまうは、私だけなのかもしれないが、いちどそう見えてしまうと、
どうしても貧相な印象につながっていく。精悍な印象には、どうしても見えない。

見れば見るほど、内部のつくりと、ミスマッチだろうと思えてくる。

内部の作りから判断して、A100は力作だと、先に書いた。
そう感じさせる、精悍な印象が、A100の内部にはある。

なのに、なぜ、このパネルフェイスなのか。
絶対にあり得ないことと、はじめにことわっておくが、もし長島先生が、
バーンスタインよりもインバルのマーラーを高く評価される人だとしたら、
この項の(その50)(その51)に書いた国産パワーアンプを、高く評価されていただろう。

私にしても、インバルのを好む耳(感性)をもっていたとしたら、
その国産パワーアンプの欠点には気がつかずに、「いい音だ」と満足していただろう。

インバルの演奏(音といいかえてもいいと思う)と、その国産パワーアンプの音には共通するものがある。

先に、ピアニシモの音に力がない、と書いたが、これに通じることでは、
音の消え際をつるんとまるめてしまう、そんな印象をも受ける。
それに力がないから、だらっとしている。消えていくより、なくなっていく。

だから、ちょい聴きでは、「きれいな音」だと感じるが、決して「美しい音」とは、私は感じない。
長島先生も、「美しい」とは感じられないはずだ。

この手の音を、「ぬるい」「もどかしい」と感じるところが私には、どうもあるようだ。
同席していた編集者の一人は、バーンスタインのマーラーを聴いてひとこと、
「チンドンヤみたい」と呟いた。

そのときは、いきおいで、長島先生とふたりして、
「マーラーをわかっていないな」と、彼に対して言ってしまったが、
バーンスタインの感情移入の凄まじさを拒否する人もいるだろう。
そういう人にとっては、インバルのマーラーのほうが、ぴったりくるのかもしれない。

彼には彼なりのマーラーの聴き方があっただけの話だ。

だから、バーンスタインとインバル、どちらのマーラーが演奏として優れているのか、
普遍性をもち得るのか、を議論しようとは思わない。

聴き手の聴き方が違うだけのことであり、この聴き方の違いが、「音は人なり」へとつながっていくと思う。

同じ環境、同じ装置を与えられても、私と、バーンスタインのマーラーを「チンドンヤ」といった編集者とでは、
そこで響かせる音は、正反対になってとうぜんだろう。
長島先生が来られた。
試聴に入る前に、とにかくバーンスタインのマーラーを聴いてもらう。

さっき聴いたばかりの第5番をもういちど鳴らす。

冒頭のトランペットの鳴り出した瞬間から、長島先生が身を乗り出して聴かれている。
途中でボリュウムを下げる雰囲気ではない。1楽章を最後までかけた。

満足された顔で、どちらからともなく「インバルのをちょっと聴いてみよう」ということになり、
インバルのCDをかけた。すぐにボリュウムをしぼった。

長島先生と私は、インバルのマーラーを「ぬるい」と感じていた。もどかしい、とも感じていた。

インバルのマーラーは、バーンスタインのマーラーの前では聴く価値がない、といいたいわけでなはい。

長島先生と私が求めていたマーラーは、バーンスタインの演奏のほうだったというだけである。
旧録音の、ニューヨークフィルとのマーラーに、特別な感慨はなかったが、
それでも1970年代後半からのウィーンフィルとのベートーヴェン、
1980年代前半、デジタル録音で、やはりウィーンフィルとのブラームスを聴いて、
バーンスタインという指揮者に、つよい関心をもつにいたった。

1985年、イスラエルフィルと来日したときも、聴きにいくほど、
バーンスタインの熱心な聴き手になりつつあった。

つまり、新録音のマーラーに対して、あまり関心がないとはいいつつも、
もしかしたら、という期待ももっていた。

第1楽章の、トランペットのファンファーレが鳴る。
この時点で、インバルの演奏とは、空気がまったく違っていた。

漠然と、こういうマーラーが聴きたいと思っていた以上のマーラーが、響いてきた。
無性に嬉しかった。1楽章を聴き終えたところで、そろそろ長島先生が来られる時間となった。
バーンスタインが、ドイツ・グラモフォンにてマーラーの全集の再録音にとりかかったことは知っていた。
けれども、CBS時代の、ニューヨーク・フィルとのマーラーをいくつか聴いてみても、
すでに私がマーラーを積極的に聴きはじめたときには、もっと新しい録音で、
他の指揮者による演奏がいくつも出始めていただけに、格段魅力的な演奏とは感じなかったこともあって、
新録音には、ほとんど関心がなかった。

それでも第4番と5番が出たときには、もうインバルの演奏は聴きたくない、という反動から、
試しに買ってみるか、という軽い気持で手にした。

ちょうど午後から長島先生の試聴がはいっている日の、昼休みの時間のことである。

会社に戻り、すぐに試聴室に行く。
すでに、試聴準備は午前中にすませていたし、電源も入れっぱなしでウォームアップもしている。
CDさえセットすれば、すぐに聴ける状態になっている。
いままで読んできたオーディオ評論のなかで、デザインに関して強烈に記憶に残っているのは、
ステレオサウンド 43号の、瀬川先生のトリオのコントロールアンプ、L07Cに対する記事だ。

43号では、L07Cについて、上杉先生、菅野先生も書かれているが、
デザインについてはひとことも触れられていない。

ひとり瀬川先生だけが、L07Cのデザインについて、「試作品かと思った」と書かれ、
「評価以前の論外」であり、さらに「目の前に置くだけで不愉快」とつづけられ、
あきらかに、ここからは瀬川先生の怒りが感じられる。

たしかに、中学2年だった私の目から見ても、試作品のような仕上りのように感じられたが、
なぜ、瀬川先生の怒りが、そこまでなのかについては、理解できなかった。

低音の量感ということでは、ヨーロッパのほうが、アメリカよりも、
瀬川先生の求められていた、いい意味でのふくらみ、そして包みこまれるような量感は豊かであったし、
このことが、アナログプレーヤーにおいて、
フローティング型が、ヨーロッパから多くが登場したことにつながる気がする。

アナログディスク再生においてハウリングが発生していたら、
低音の量感を求めることはできない。
量感うんぬんは、ハウリングマージンが十分確保されていてこそ、の話だ。

ただトーレンスやリンのようなフローティング型プレーヤーは、日本家屋で、和室で使用する場合には、
床があまりしっかりしていたいことと関係して、針飛びという問題が発生する。

あくまでフローティング型プレーヤーは、しっかりした床が条件として求められる。

そのせいか、1970年代、まだまだ和室で聴く人が多かったと思われる時代に、
フローティング型プレーヤーはなかなか受け入れなかったのだろう、と考えている。
長島先生は、はっきりしておられた。

微小レベルの変化に鈍感なモノは、いくら愛情をもって使いこなそうとも、
鈍感なものは鈍感なままで、決して敏感、鋭敏になることはない。
本質は変らないからだ。

オーディオ機器だけでなく、演奏に関しても、そのことは共通していた。

1980年代後半、ステレオサウンドでも、よく試聴に使っていたエリアフ・インバルによるマーラーの交響曲。

第4番と5番は、なんど聴いたことか。
特集の試聴でも使い、新製品の試聴でも使う。
すべての試聴に立ち会っていた私は、おそらく当時、
もっともインバルのマーラー(一部だけだが)を、聴いた者だっただろう。

正反対のマーラーを聴きたいという欲求がたまりはじめていた。
「音の色数」「色彩」ということばからもわかるように、長島先生は、音の変化に対して、
鋭敏であるものを好まれていたし、その点を、集中して鋭敏に聴きとろうとされていた。

「オーディオで原音再生はとうてい無理」──、そう長島先生は言われていた。
けれど、ほんのわずかな変化にも鋭敏な音がきちんと出てくれば、
「ぼくは錯覚できる、ナマを感じる」とも言われていた。

音の帯域的なバランスがすこしおかしかろうと、微小レベルの音の変化が出ていれば、
音楽にのめり込んで、聴かれていた。

だからこそ、一見きれいな音を聴かせようが、見事な帯域バランスをもっていようが、
その点に鈍感なものに関しては、手厳しい評価を下されていた。
水にも、いろいろある。含有される各種ミネラル成分のバランス、量によって、
まず大きく分けて、軟水と硬水とがあり、口に含んだときの感じ方はずいぶん違う。

近い硬度の水でも、ミネラル成分の割合いによって、味は異り、
同じ水でも、温度が違えば味わいは変わってくる。

水のおいしさは、利き酒ならぬ利き水をするのもいいが、
そのまま飲んだときよりも、珈琲、紅茶、アルコールに使ったときのほうが、
違いがはっきりとわかることがある。味わう前に、香りの違いに気がつくはずだ。

料理もそうだ。
いつも口にしている料理、たとえば味噌汁を、ふだん水道水そのままでつくっているのであれば、
軟水のナチュラルミネラルウォーターでつくってみれば、何も知らずに出され口にした人は、
いつもとなにかが違うと感じるはず。
AGIが特許を取ったというパワーアンプのバイアス回路の資料を、やっと見つけ出せた。

AGIもしくはAudio General Inc.で、Google Patentsで検索してもだめで、
511の設計者、デヴィッド・スピーゲル (David Spiegel) の名前で検索したら、簡単に見つかった。

スピーゲルのつづりが、さっきまでわからなかっただけ、ということである。

パテントナンバーは、4,237,425で、タイトルは"AUTOMATIC BIAS ADJUSTING CIRCUIT"。
「スーパー・ギター・トリオ」は、はじめて聴くレコードだった。

でも、このレコードの鳴りかたは、アクースタットが素晴らしいスピーカーであることを、
シャシュのレコードの時とは、別の角度から確認できた。

黒田先生は、こう発言されている。
     *
このレコードの聴こえ方というのも凄かった。演奏途中であほど拍手や会場のイズが絡んでいたとは思いませんでしたからね。拍手は演奏が終って最後に聴こえてくるだけかと思っていたのですが、レコードに針を降ろしたとたんに、会場のざわめく響きがパッと眼の前一杯に広がって、がやがやした感じの中から、ギターの音が弾丸のごとく左右のスピーカー間を飛び交う。このスペクタキュラスなライヴの感じというのは、うちの4343からは聴きとりにくいですね。
     *
大げさでなく、まさに、私もこう感じていた。
「スーパー・ギター・トリオ」のレコードに針を降ろしたとたんに、
ステレオサウンド試聴室の雰囲気がかわった。

いまでは、そういう音は当たり前のものとして、驚きを持って受けとめられることはないだろうけど、
1982年当時は、違っていた。
試聴レコードにない、聴きたいレコードを聴けるわずかな機会に、シャシュのレコードをかけたわけだ。
ノルマの「カスタディーヴァ」を一曲聴く時間は十分にあると思っていたし、
さらに二、三曲聴く余裕は、前日までの感じでは、あるはずだったが、
意外にはやく黒田先生、上杉先生たちが戻ってこられた。
あと20分ぐらいは、戻ってこられないと思っていただけに、いそいでボリュウムを絞り、針を上げようとしたら、
黒田先生が、「そのまま聴かせて」といいながら、椅子に坐られた。
聴き入られていたようすだった。

途中からだったので、もう一度最初からかけ直すことになった。
午後の試聴が、こうしてはじまった。

シャシュのあとに試聴レコードの三枚、そして黒田先生が、「これを鳴らしてほしい」ということで、
アル・ディ・メオラ、ジョン・マクラフリン、パコ・デ・ルシアの「スーパー・ギター・トリオ」を聴くことになった。
サンスイからスーパー・フィードフォワード・システム採用のAU-D907Fが登場したとき、
私が使っていたのは、AU-D907 Limitedだった。

高校生が使うアンプとしては高価なアンプだし、不満を感じていたわけではないが、
それでもスーパー・フィードフォワード・システムに関する記事や広告を読むたびに、
このアンプ(AU-D907 Limited)にも、搭載することはできないのか、という思いが募っていった。

それでサンスイに手紙を書いたことがある。
AU-D907 Limitedを改造してもらうことはできないのか、
スーパー・フィードフォワードシステムを搭載することは無理なのか、とたずねた。

返事はこないだろうと思って出した。
しばらくしたら、返事があった。

AU-D907 Limitedへの搭載は、技術的にまず無理だということ。
そして、907 Limitedは、完結したモデルであるから、大事に使ってほしい、と書いてあったことを思い出した。
サンスイは、NFBとの併用の、この方式をスーパー・フィードフォワード・システムと呼び、
パワーアンプの出力信号と、逆位相の歪成分が出合う箇所(サミングポイント)を、
正確なものとするために(ここの精度が甘いと逆に歪を増してしまう)、
スピーカーの負荷変動に影響を受けないサミングネットワークを開発し、特許を取得している。

さらに歪成分の検出は、電圧増幅部と出力段の中間でおこなっているのも、
サンスイ独自の工夫である。

AGIがフィードフォワード方式だけで、パワーアンプの開発を行なっていたのか、
NFBとの併用だったのかは、わからない。
サンスイの特許を回避してのフィードフォワード方式のパワーアンプが実用となるのかどうかも、
私の知識でははっきりとしたことは言えない。

技術には、いくつかの解決方法があるはずだから、AGIがあきらめずに研究をすすめていれば、
もうひとつのフィードフォワード方式のパワーアンプが誕生していたかもしれない。
にも関わらず、あとに発明されたNFBが、大半のアンプに採用され、
アンプの発展をうながしてきたのは、フィードフォワード方式を現実の製品に組み込む難しさ、
回路構成の複雑さ、それにパワーアンプへの採用が、かなり困難だったこともあるだろう。

動的特性の改善を実現した511だけに、ペアとなるパワーアンプにも、
ほぼ間違いなくフィードフォワード方式を採用しようとしたはずだ。

けれど満足のいく特性、というよりも安定度を確保できなかったのではないだろうか。

フィードフォワード方式を、パワーアンプで、実際の製品に搭載したのは、
おそらくサンスイのプリメインアンプ、AU-D607F/707F/907Fが最初であろう。

サンスイのアンプは、フィードフォワードだけを採用しているのではなく、
NFB方式と組み合わせることで、実使用時の安定度を確保している。

言葉で書いていると、簡単なことのように受け取られるかもしれないが、
実際の開発には5年間の歳月と、2度の挫折があったときいている。
511で、あれだけ高い技術力を示したAGIが、なぜパワーアンプを開発できなかったのか、
その理由の正確なところは、開発者以外には、誰にもわからないことだけれど、
おそらくフィードフォワード方式にこだわったためであろう、と私は考えている。

あまり知られていないことだが、511はフィードフォワード方式を採用し、
歪率、周波数特性などの諸特性を改善している。

フィードフォワードは、1937年にフィードバック(NFB)理論を発明したH・S・ブラックが、
さかのぼること9年前に発明していた技術で、
アンプの出力信号から歪成分を検出し、これをいったん180度位相反転し、ふたたび加えることで、
歪みのみを打ち消すという理論である。

NFBは、その名の通り、出力信号の一部を入力に戻す(バック)することで、特性を改善するわけだが、
歪率を低減化するためには多量のNFBが必要となる反面、1970年代後半に、
マッティ・オタラによって問題提起されたTIM歪に関しては、減らすどころか、発生のメカニズムになっている。

理論としては、先に発明されたフィードフォード方式が優れていると言ってもかまわないだろう。
3012-R Specialの、瀬川先生の記事を読んだ時のことも、はっきりと覚えている。

「これは、絶対に必要なアイテムだ」と確信し、とにかく、これだけは真っ先に手に入れておかねば、と思ったのは、
当時のハーマンインターナショナルの広告には、300本の限定販売と書いてあったからだ。

瀬川先生の文章を何度も読み返せば返すほど、それから先、どんなスピーカーを使うことになろうとも、
このトーンアームは絶対に必要不可欠なものはなるはず、とつよく思っていた。

だから、まだアルバイトも始めてなかった学生時代に、9万円弱のトーンアームを、12回払いで買った。
ステレオサウンド 58号を読んだのが1981年の3月。
一カ月後に手にしていたわけだ。

結局、3012-Rは、限定販売でおわることなく、継続して販売されることになったから、
無理して買うこともなかったのだが、
これを抱えて、電車で帰宅するまでのあいだ、すこしの衝撃も与えなくないて、
両手で抱きしめるように持って帰ったものだ。
正確に記憶しているわけではないが、
1980年代のシーメンスのコアキシャルの広告に、伊藤先生の達筆で、こんなふうなことが書かれていた。

「ひどいアンプで鳴らされる良質のスピーカーほど、惨めなものはない」

まったくそのとおりだと、その時、思ったことを覚えている。
まだまだま経験の少なかった頃だったが、それでもグレードアップを図っていく順序は、
音の入口からだ、と感じていた。

スピーカーが優秀であればあるほど、アンプやプレーヤー、それに使いこなしの不備をあからさまにすることは、
少し考えれば、すぐに理解できることでもある。

音入口のクォリティはそれほど重要であり、
だから、音の入口にあたるところは、つねに重視してきた。

東京に出て来た時に、実家で使っていた装置はそのまま置いてきた。
そして、東京で、とにかく、これだけは手に入れておかねば、と思い、
相当無理して買ったのは、SMEの3012-R Specialだった。
かなり以前の大型で、高能率のスピーカーは、当時から、うまく鳴らすのが難しい、と言われ続けている。

これに対し、井上先生は、疑問を投げかけられていた。

たしかに、当時は、なかなか、その手のスピーカーはうまく鳴らなかったのは事実だけれど、
それはスピーカーそのものの持つ性格が鳴らしにくいものではなく、
パワーアンプ以前の、装置の不備や、使いこなしの未熟さを、
スピーカーが、なまじ高感度ゆえに、そのままストレートに出していたのではないか、と、
私は、井上先生の言葉を、そう解釈している。

物理的なSN比の高さは、もちろん高能率スピーカーを鳴らす上では重要だが、
聴感上の高SN比も求められる。
このSN比が悪いアンプ(とくにパワーアンプ)をつなごうものなら、それは聴くに堪えぬ音になるだろう。

当時の高能率スピーカーが、いま新品同様のコンディションで存在していたとして、
現代のアンプで、現代のプログラムソースを鳴らしたら、
当時の苦労の多くは、もとより存在しなかったものだったのかもしれない。

あくまでの仮定の話であって、確かめる術は、誰にもないけれど、
それでも、スピーカー以外のオーディオ機器の基本性能が高くなれば、
それだけスタート地点が変ってくることは、確実にいえる。

だから、QUADのESLは、発売された当初よりも、アンプをはじめとする周辺機器の進歩と音質向上にともない、
その評価は確実に高くなっているのは、ESLの真価が、発揮できる環境が整ってきたからである。

くりかえしになるが、これはESLに関していえるのではなく、
ESLと同時代の、当時高い評価を得ていたスピーカーならば、同じことが言えて、当然であろう。
2008年9月3日の19時7分に、最初の記事を書いているから、今日から2年目に入った。

毎日書いていても、達成感みたいなものは感じられないけれど、
今日はちょっとだけ、達成感らしきものを感じている。
マークレビンソンのアンプが登場して、何が変ったかというと、
いくつかあるなかでまず挙げられるのは、それまでオーディオコンポーネント(組合せ)において、
主役はあくまでもスピーカーであったのが、特にML2Lの登場以降、
アンプのほうが主役になってきたように感じている。

さらに80年代にはいり、アポジーのスピーカーの登場で、
低インピーダンス・低能率のスピーカーを十全に駆動するために、パワーアンプの規模が大きくなり、
アンプの顔つきも変ってきたのではないだろうか。

パワーアンプはスピーカーを鳴らすための、ある意味、裏方という考えは、さも古い、といわんばかりに、
パワーアンプが、存在を自己主張しはじめてきた──、そんな印象すらある。

早瀬さんが導入したクレルのEvolution 302は、出力が、8Ω負荷で300W+300Wだから、
お世辞にもコンパクトなサイズとは言えないが、パネルフェイスといい、
ヒートシンクを筐体内におさめたコンストラクションといい、
受ける印象は、どことなく地味で質素なところがあり、オーディオコンポーネントの主役は、
アンプではなく、スピーカーである、と語っているようにも受けとれる。

これは、ダゴスティーノがスピーカーを手がけたことと、決して無関係ではないはずだ。
こんなふうに思いはじめていただけに、この春、早瀬さんと、
JBLの4341 をいま鳴らすとしたら、どんな組合せにするか、どんなアンプをもってくるか、
電話で話していた時、当時のパワーアンプ、SAEのMark 2500やGASのAmpzillaで鳴らすのも、
おもしろいだろうけど、スピーカーという難物を駆動することにかけては、
確実に、現代のよく出来たパワーアンプほうが、過去のアンプよりも優れている。

そんな、現代の優れたパワーアンプのなかから、何を選ぶか。

人の個性を表立って感じさせないブランドのモノを選ぶのも、
ヴェテラン・エンジニアの手によるモノ、
クレル、パスラボ、ジェフ・ロゥランドDGといったブランドから選ぶのも、人それぞれだろう。

早瀬さんが、DD66000のために、クレルとウエスギアンプという、
日米の、ヴェテランエンジニアの手によるアンプを導入されたことを意外に思う人もいるかもしれないが、
私は、すごく納得できるし、興味深く思っている。
優れた処女作がもつ「絶妙な味わい」に惹かれてきたわけだ。

厳密な意味では、いつの時代の、どのアンプの音も、それでしか鳴らし得ない音ではあるのだが、
フィッシャー・ディスカウほどの名歌手が、一生に一度しかうたえない歌という意味では、
処女作の絶妙な味わいが、それに近いといえるのではないか。

クレルにしてもスレッショルドにしても、第二弾、第三弾......と、アンプの完成度は増していく。
それに伴い、絶妙な味わいは薄れていく。
そのことが完成度が高くなっていくことの証なのだが、
だからといって、アンプとしての魅力が、それに比例しているとは、正直、私は思っていない。

そんな私も歳をとった。いろんな音を聴いてきた。
そして、音で苦労し人生で苦労したヴェテランの鋭い感覚でのみ作り出すことのできる、
ある絶妙の味わい」をもつアンプを、心底、魅力的と思えるようになった。
音で苦労し人生で苦労したヴェテランの鋭い感覚でのみ作り出すことのできる、ある絶妙の味わい」なんてものは、
しょせん、そのアンプ固有の色づけなのだから、そういうものをアンプには求めない。
求めるのは、極力色づけのない、高性能なアンプという人もいるだろうし、
だからこそ、いくつものメーカーが成り立っているし、競い合ってもいる。

つまり、どちらのアンプが優れているか、という問題ではない。
どちらのアンプを求めるか、の違いがあるだけだ。

私は、というと、「ある絶妙な味わい」のアンプに惹かれる傾向がある。
それも、ヴェテランの鋭い感覚による絶妙な味わいよりも、
どこかに未完成さを残している、初々しさが感じられる絶妙な味わいに、ころっといくことがある。

だからクレルのPAM2とKSA100の音に惹かれたのだし、初期のマークレビンソンのLNP2、JC2にもそれを感じる。
スレッショルドのデビュー作、800Aの、底力を秘めた、どこか清楚な感じのする音も魅力的に思っている。
マドリガル体制になってからのマークレビンソンも、パワーアンプの開発には積極的なのは知っている。

だが、クレル、スレッショルド/パスラボ、ジェフ・ロゥランドDGは、
ひとりのエンジニアがキャリアを重ねていっているのに対し、
いまのマークレビンソンには、そういうエンジニアはいないはずだ。

初期に関わっていたジョン・カール、その後のトム・コランジェロは、かなり以前に離れているし、
No.20L開発の中心エンジニアだったケビン・バーグ(だったと思う)も、いまはいない。

これは国産のアンプメーカーにも同じことがいえよう。

どのメーカーも、アンプ作りのキャリアは長い。
だが、ひとりのエンジニアのキャリアが、同程度長いわけではない。

それではたして音で苦労し人生で苦労したヴェテランの鋭い感覚でのみ作り出すことのできる、
ある絶妙の味わい」をもつアンプをつくれるのだろうか。
マッキントッシュが、さまざまな出力管を使い(6V6、6L6G、6BG6、1614、6550/KT88、7027A、7591、6LQ6/6JE6Bなど)、
回路構成も、位相反転段がオートバランス回路、カソード結合型、P-K分割型があり、
出力段の前段にカソードフォロワーをもってきているものもある。
アンプそのもの規模も、初期の15E-1と真空管アンプの最後を飾ったMC3500とでは、
プリアンプと大型パワーアンプぐらいの違いがある。

クレルもスレッショルド/パスラボがつくってきたパワーアンプも、実に豊富だ。
いろいろなことを試みている。
クレルがModel 250Mで採用した、モノーラル構成ながら、左右対称の筐体構造はじつに意欲的だったし、
パスラボのアレフ・シリーズも、非対称A級シングル動作という、ひじょうにユニークな回路構成となっている。

ジェフ・ロゥランドもそうだ。初期のModel 7、8、9から、一転してパワーICを並列接続したアンプや、
スイッチングレギュレーターもいち早く採用。
さらにB&Oが開発したICEpowerへの注目・採用もはやかった。

こういうヴァリエーションの豊富さは、
ともに創立者がいたころのマランツにもマークレビンソンにはなかった。

クレルも、スレッショルド/パスラボ、ジェフ・ロゥランドDGも、
30年のキャリアの中で、意欲的にパワーンアンプに取り組んでいる。
優れたコントロールアンプ、そして後々まで語られていく魅力的なコントロールアンプを生みだすには、
どこか才気走ったところが、エンジニア(プロデューサー)には、求められるのかもしれない。
そういう人間に、ひとつのところにとどまれ、というのが、ある意味、無理な要求なのかもしれない。

そういう人間は、ときに、魅力的なモノを生みだす。
だが、瀬川先生がアンプに求められた
音で苦労し人生で苦労したヴェテランの鋭い感覚でのみ作り出すことのできる、
ある絶妙の味わい」となると、どうだろうか。

そういう人間を、ヴェテランと呼べるだろうか。

やはり、いま現役のエンジニアでヴェテランとすなおに呼べるのは、
ダゴスティーノ、パス、それからジェフ・ロゥランドだろう。
特別枠で、ジェームズ・ボンジョルノもあげておく。

みな1970年代のおわりから1980年ごろにかけて会社をつくっている。
30年のキャリアをもっている。
1953年に創立されたマランツは、いまでも健在だが、創立者のソウル・B・マランツは、
1967年にスーパースコープ社に譲渡し、マランツから離れている。

マッキントッシュの創立は1946年、創立者はフランク・H・マッキントッシュ。
同年にゴードン・J・ガウが入社し、以後、約30年にわたって共同経営し、
1977年からゴードン・ガウが社長を引き継ぐ。

真空管アンプ時代、マランツは、モデル2、モデル5、モデル8(B)、モデル9と、
機種数からいえば、コントロールアンプよりもパワーアンプのほうが多いが、出力管は一貫してEL34を採用。
マッキントッシュのパワーアンプは、出力管もさまざまで、機種数も多い。製品の規模も豊富で、
パワーアンプの開発に意欲的だった印象がある。

そのため、マランツはコントロールアンプのほうが得意だった、
マッキントッシュはパワーアンプが得意だった、という印象がある。

コントロールアンプを得意としていたマークレビンソンも、レヴィンソンは、創立後12年目に離れている。

ソウル・B・マランツが、マランツを離れてから、ダルキストに参画したり、
ジョン・カールと手を組んだり、といくつかの会社を渡り歩いているのと同じように、
マーク・レヴィンソンも、その後、チェロをつくり離れ、
レッドローズミュージックをつくり、と、
コントロールアンプに対して、才能を発揮するタイプは、
じっくりとひとつのブランドを成長させていこう、という気質は希薄なのかもしれない。
クレル(PAM2をのぞく)とスレッショルドのコントロールアンプには、
ある種のもどかしさを感じると書いた。

同じようなもどかしさを、マークレビンソンのパワーアンプ、ML3Lにも感じていた。
ML2Lには、そんなことはまったく感じなかったのに、ML3Lにはあった。

だからというわけではないが、製品の構成を含めてみると、
マークレビンソンは瀬川先生が指摘されていたように、コントロールアンプを得意とするメーカーである。
そして、クレル、スレッショルド/パスラボは、
どちらかといえばパワーアンプを得意とするメーカーといえるし、
パワーアンプに対して意欲的な開発をするメーカーともいえる。

つまりクレルのダニエル・ダゴスティーノ、スレッショルド/パスラボのネルソン・パスは、
パワーアンプに対して意欲的なアンプエンジニアである。

理由はわからないが、マランツ、マッキントッシュのころから、
パワーアンプを得意とするほうが、ブランドが永く続いているようだ。

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